今日は大変情けない話でもあるのだが、人生の早い段階で自覚していたのに、30歳を過ぎてやっとできるようになった”あること”について、振り返ってみようと思う。
昔から、特に10~20代の頃に、僕が全くできなかったことは、何を隠そう”異性と喋ること”である。(恥)
これは・・・・・本当に今思い出しても恥ずかしいという気持ちがありつつも、仕方ないよなと自分に同情する気持ちも抱いている。
しかし、30歳を過ぎた今、僕はそれができている。当事者比だが、割と普通に喋れるのだ。一体、僕はいつの間に、このコンプレックスを克服したのだろうか。
今日はそんな、誰の役に立つのかわからない人生の振り返りを、記事にしてみようと思う。
「あの方たちは、俺ごときが口を利いてもいい存在ではない」
僕は高校の頃、文系を選んでいる。つまり、クラスの過半数が女子という状況だ。そんな場所にいたのに、マジで全然ダメだった。
女子と話すことも、当然話しかけるられることもなく、ある意味透明な学校生活を送っていた次第だ。
高校3年間で女子と喋った時間を徹底的に圧縮したら、多分10分ぐらいしかないと思う。それぐらい、本当に喋っていない。それが普通だとさえ思っていた。
そういった自分がほとほと嫌だったし、また20代前半の頃は、自分のコンプレックスに起因するのだが、彼女って存在もちゃんと欲しかった。
だからこそ本を読んで色々勉強したり、あるいはアメトーークの女の子苦手芸人を観て安心したりと、鬱屈した生活をしていた記憶がある。
その時点から2回か3回ぐらい、曲がりなりに失恋みたいなことを経験し、その末に色々どうでもよくなってきたという話は、何度か書いた。
以来、異性と喋れるかとか、喋れてないとか、そんなことさえ数年ぐらい全くと言っていいほど意識してなかったわけである。
―それからしばらく経った今、たまたまふと気づいた。「あれ?俺、特に目の前にいる人が異性かどうかを意識せず、割かし普通に、喋れているな」と。
異性とはある意味、気を遣わねばならない、何なら神聖視しなければならない存在といったちょっとキモい思い込みが、いつの間にか霧散していたのだ。
初めにその心当たりが浮かぶのは、確か27歳の時だ。この年、中学校の同窓会が行われ、なぜだか不思議な縁で僕にもお声が掛かったのだ。
その場に、同じ中学を出て、同じ高校に行ってたのに、ほとんど3年間喋ることができなかった同級生の女子がいた。
酔ってたのもあるのだが、普通に喋ることができた。もし高校時代の僕がその光景を見ていたら、トムとジェリーの一場面みたいな目玉の飛び出し方をするだろう。
このときの自分と、更に過去の自分の違いは何か。それは内面にある。27歳の僕は、既に諦めを付けた後の僕なのだ。
「自分は異性に縁がないんだよね」っていうことを自虐していた頃には、まだどこかに、そこから脱却する自分を期待している部分が僕の中にもあった。
しかし、その期待がプレッシャーとなり、余計な頭を使うから、まともに話すことができず、また自分に対し失望する、と。そんな不健全なループに入っていたように思う。
とはいえ、僕の仕事は今、塾講師だ。仕事柄、普通に女子中学生や女子高生と接するし、それが出来ねば仕事にならない。
もちろん、年が15歳以上違う子供に対して、異性としての意識なんて抱いたらそれは犯罪のにおいがするし、そもそも僕はロリコンでもない。
淡々と、仕事として、あるいは仕事をしている自分の分人を通じて、中学・高校の頃とは比較にならない量の経験値を僕はこっそり積んでいたのだと、今は考えている。
関係性によっては冗談を言ったり、傷つけない程度にイジったりもする。逆もまたしかり、だ。これは昔の僕には絶対にできない、あれやこれやなのである。
―もう少し、時を戻してみる。仕事とはいえ、いきなりパッと普通に接することができたわけがない。そこを繋ぐ出来事は、一体何があったのだろう。
その途中にあったのは、「俺は彼女を実は欲していないんだ」と完璧に理解した悟りだった。以来、こういった接し方ができるようになったと、今は納得している。
それを悟って以来、僕が勝てる要素も楽しめる部分も無い恋愛だの結婚だのといったゲームから完全に足を洗い、それに関する努力も投資も、一切止めている。
それなのに、なぜか僕は、昔とは比較にならないほど、女子と喋れている。やはり、心底納得して”諦めた”のは大きかったんだなと、すごく思う。思わざるを得ない。
「俺はこう見られたいんだ!」という、異性から見た自分の理想像も、完全に無い。30歳を過ぎて、そんな盛りのついたことはイチイチ考えない。
「異性から振り向いてもらえなかったら、俺には男としての価値がないんだ・・・」なんて自意識過剰な思い込みも、もう湧いてこない。
恋愛や結婚に対する価値・魅力の一切は、自分の中でダダ下がりし続けている。つまり、心底、どうでもいい。
もちろん、今後もずっとそうかは、今の僕には分からない。例えば、魅力的な人に出会って、その人と恋人としての関係を切り結びたいと切望する未来があるかもしれない。
ただし、今のところそういった気持ちはない。出会いの場にもあまり出かけておらず、今その誘いが来ても、僕はソロキャンプを優先する。
願って努力し、折れて折れて、諦めた果て。そこに過去の自分が求めていた自分の姿があったのは興味深い。
ただし残念ながら、あの頃の僕が持っていた切望は、完全に霧散してしまった。これは人間的な成長なのか、それとも衰退なのか、やはり現時点ではジャッジできない。
僕にとっての美人さん。
異性と喋れるようになった背景には、諦めと同時に、仕事という分人や役割を通じての、中学生や高校生、大学生の女性と話す機会が増えたことが挙げられる。
そして【諦め】というメガネをかけた状態で場数を踏んでいくうちにようやく、つまり相手もただの人間であり、単に性別が違うだけだと気づくようになれた。
これによって変化したことは、厳密にはもう1つある。それは、いわゆる美人さんに接したときに気付いた。
僕はもう、その人が”美人であること”に対する緊張や意識も薄まり、シンプルに「外見の整っているヒト」とだけ思うようになったのだ。
イメージは、卓抜した絵画を見たときの反応に、よく似ている。構図も色使いも全てが整っている。それはわかる。でもそれ以上の感想を持たない、あるいは持てないのだ。
その人が美人であること以上に、どんな思考をする、どんな経験をしてきた人なのかの方が、よっぽど気になる。絵画そのものより、著者の哲学や背景が気になるように。
それと当時に、恋愛や結婚に関する考え方も、無の方向に更に固まってきた。やはり僕は、彼女や嫁、子供という存在を得るための努力が、どうしても継続できない。
かつては欲しかった存在であるはずなのに、今はその執着を持とうとしても持てない、というところにまで来てしまった。
僕はやっぱり自分の子供は要らないし、ならば結婚もしなくていいから、その前段階の彼女も要らない。論理的に全てが繋がり、そしてとても納得感がある。
20代の頃の僕が今の僕を見たら、なんて顔をして、なんて言うだろう。たぶん半泣きで「ありがとう」じゃないかな。そんな風に思う。
終わりに。
32歳になり、色んな強がりやしょうもないプライドが取れて、結果異性と普通に喋れるようになっていた。その代わり、夢や理想も、同時に消えてしまった。
相手を神聖視する限り、異性と対等な口を利くことは絶対にできない。僕はそう考えている。だからあなたが異性と話せないのなら、送れるアドバイスがまず1つ。
とにかく、場数を踏むことだ。何も合コンに行け、というつもりはない。バイトでもなんでもいいから、女性と嫌でもコミュニケーションを取る場に出た方がいい。
その内、神格化した女性というイメージは崩れていく。これは何も、ダメな面が見えてがっかりといった話ではなく、等身大で接せるようになるという、そんな話だ。
あるいは、いっそ徹底的に諦めてみるのもいいかもしれない。例えば男子大学生は、恋愛市場においては無価値という話を聞いたことがある。
よっぽどのイケメンか実家が金持ちである場合を除けば、社会人に勝てるわけが無い。経験値も年収も余裕も、全てが格上の相手に不利な場所で挑むようなものだ。
RPGの序盤でラスボスに勝てると思わないのと同じだ。まずは力を付けてから、その資格が得られるという話である。
そのまま、諦めた果てに納得を見出すことがあっても、僕は責任を取れないが・・・。とりあえず、理想も期待も、邪魔だってことは書き添えておく。
ということで過去最大級の駄文だったが、今日はこの辺で。