やっぱりプロテインは、チョコ系やバナナ味が王道にして最高だ!・・と思う中元です。
はい。記事更新の方針を変更すると宣言したので、この記事も継ぎ足し継ぎ足しで5000字を超えるまでは、アップしないことにする。
そんな今日のテーマは、「自分の力を試してみたい」という言葉についてである。
この言葉は基本的に、"前向きな意味合いで"組織などを抜けるときの常套句だと考えている。実際、この言葉を言われた後は、辞職などの行動がセットになるからだ。
そのセリフに対し、僕は、「どういうマインドで言っているんだろう?」と、実は不思議でならなかったものだ。やりたいことは、組織内で実現すればいいじゃん、と。
しかし今ならば、そのセリフの裏に潜むダークな気持ちが、身に染みてよくわかる。そういう経験を、ついこないだ、したからだ。
ということで今日は、「自分の力を試してみたい」という言葉は、もしかしたら悲しい経験を重ねてきた結果、口をついて出た説を、頑張って記事にしてみようと思う。
実力で昇進できない世界。
いきなり結論から書いてしまうが、「もうここにいても評価されないので、去ります」という意味合いで、先の言葉は使われているのではと、僕は感じている。
そのセリフが出るということはつまり、その人の我であったり要望であったりが、大なり小なり抑圧され続けてきたということを意味していることが多いためだ。
やりたいことを提案してもあしらわれる。他者の仕事ばかりを背負わされる。自分が組織の歯車に成り下がっている現実。ここにいたら、俺は、私は、使い潰される。
そう悟ったら最後、もう抜けるしかない。ただし、そんなマグマを全部ぶちまけると、角が立ち、敵が増える。なんなら、面倒な説得や説教を食らうかもしれない。
だからこそ、オブラートに何重にも包んで、「自分の力を試してみたいので」という耳触りの良い言葉で、その闇を表現しているだけではないか。そう考えている。
では一体なぜ、この段階になるまで、不満が溜まってしまうのか?もちろん客観的に見ると、その人の功績が不十分なだけという可能性もあるけれど。
僕はそれについて、遠因かもしれないが、日本で長年沁みついた、ある文化に根源があると思っている。
それは言葉としては美しい、【終身雇用】及び、それに伴う【年功序列】である。
年功序列が大切にするもの、それによって大切にされないヒト。
終身雇用が崩壊したといわれて久しいが、それが一体どこまで周知徹底されているかは別問題だ。
実力主義に切り替えることは、今の世の中を生き抜くためには必須とみて間違いないだろうが、それを浸透させることはなかなかに難しい。
これからの成果を重視するということは、これまでの貢献を蔑ろにするということ。そういうメッセージが伝わることを恐れたり、嫌ったりする人も多いためだ。
いわば、義理と人情の哲学。確かに、ずっと組織を支えてきてくれた人たちを大切にすることは至極当然だし、美学としても素晴らしいものがある。
ただし、聞こえは素晴らしいが、それを大切にすると、成果を出してきた下の人間、または新しく来た人間を切り捨てるというリスクが生じることにならないだろうか。
一例を挙げよう。
昔からいた人より、若輩の部下が、手柄を立てたとする。きちんと売上を出し、利益を計算しても、評価に値する、素晴らしい結果。
一方、その人の上司にあたる古参の社員が、その年にあまり奮わなかったとする。数値目標を果たせず、個人的な成長も乏しかった。
・・では、査定はどうするか?状況としてはシンプルで、部下がきちんと認められて昇進することが、正しく思える。
しかし、このことを字面通り認めて、そのまんま全体に伝えれば、長い間働いてくれたその人の顔に、泥を塗るかもしれない。
せっかくそれまでは組織に貢献してくれた人なんだから、ないがしろにしてはならない。むしろ、そうすることで、チームに悪影響が出るかもしれない。
・・・そういう後ろめたさが査定をする側にもしあると、自然と評価の仕方も、どこか消極的な雰囲気を帯びてくる可能性が高い。
「まぁ、他の人の助力もきっとあるだろうし・・」「なにもあいつ一人だけが頑張ったわけじゃないし・・」といった風に。
―こういうメタがあれば、元からいた人の成果を割り増しで評価し、下の人間が頑張ったそれを少なめに見積もることにも繋がるだろう。
そうなれば、先にいた人にとってみれば色々と安泰で安心だが、成果を出してきた側からみると、これはまったく、面白くない。
頑張っても、手柄は「みんなで出したもの」として吸収される。道徳として尊い話だが、もはやこうなれば、義理と人情という名の理不尽である。
結果、「評価されていない」という風に解釈される。そしてそれが積もり積もると、「ここにいても仕方がない」となる。あとはもう、さっきも書いたが、出てくだけだ。
年功序列の文化は、まだまだみんなの心の奥底隅々にまで、深く強く根をおろしている。これまでを大事にしつつ、これからも大事にすることは、果たして可能なのか。
そのためには会社や組織の規模を拡大し続けるしかないと思うのだが、それができる場は、極めて稀だろう。
往々にして、やはり成果だけでのし上るには、あまりにも人間心理的なバリアは頑強なのだと、僕は諦めに近い気分で悟っている。
仕事内容を褒められても、もう嬉しくない。
僕は今年、31歳になる。去年は実家の犬が亡くなったのもあり、人生は必ず終わるのだということ、そして思った以上に短いのだということを、改めて認識している。
自分の人生の在り方に目を向けることも増えた。無限の可能性なんて信じるトシじゃなくなってきた以上、何を捨てて、何に集中すべきか、急ぎ決めていかねばすぐに死ぬ。
そんな人生の最たる投資先は、例えば仕事であったり、結婚であったり、子どもであったり、趣味だったり、その辺になると思う。
その辺りをベースに、きちんとポートフォリオを考えねばならない。でなければ、多分死の床で、僕は何をしたのかわからないまま果てるだろう。
さて。かくいう僕は、どっかで書いたが、結婚する気はさらさらない。子供を持つという選択肢も同様だ。であれば、その分浮く人生を、どこに投資するべきか。
趣味に全振りすることも考えたが、それはそれで人生が味気なくなりそうだし、何より僕はどうやら、仕事をしている時間が好きなようだ。
例えば、【渋谷ではたらく社長の告白】という本がある。ベンチャー企業の誕生秘話を赤裸々に、一人称視点で書いたもので、どこまでもリアルな話が載っている。
華々しい歴史ばかりが載っているのかと思いきや、裏切り、挫折、誹謗、中傷、嫉妬といったことも、生々しく書かれている。
・・・それでも僕は、ここまで必死に、一途に、熱く、泥臭く働くというストーリーに、どこか憧れている。自分の一挙手一投足に、全てジャッジが下るということ。
やはり僕は、自分のケツは、自分で拭きたい。自分がしたいアイデアを提案し、チームで共有し、盛り上げて、そしてしくじれば、自分が矢面に立ち、謝りたい。
そのためには、昇進することが必要だ。では、さらにそのために、僕は何をしなければならないのか?
それはもちろん、手柄を立てまくり、成果を示し、権限と裁量を与えるに値する人間だと、会社に証明すること。単純だが、そう考えた。そして、そう行動した。
例え末端にいても、頑張ればのし上がれる。そしてのし上がれば、責任という自由が得られる。そう思ってここ数年、法定休暇などガン無視して、働いてきた。
釘を刺されたことは数知れない。痛烈な一言で心が折られかけたこともある。怒り狂ったクレームを与り知らぬ理由で受けたこともある。しかし、必死で耐えた。
結果、すり減らした心に見合う数値を作った手応えはある。自己投資として誰よりも勉強を重ねた自負もある。しかし、それに立場も肩書も、伴わない。
例えば全体の研修の場で一応評価されるのはされるが、それだけになってしまっている。人前で褒められれば満足するとでも?もう、そういうことには辟易している。
僕は自己顕示欲が強めなのだろう。だが同時に、僕は自己嫌悪も強い。「リーダーになりたい」と願いつつ、「そんな器じゃない」と自分で否定する。
不安から期待へ、希望から自責へ。両極端な感情を行ったり来たりするのを繰り返し、なかなか心が定まらない期間を、長いこと過ごした気がする。
しかし今年の人事も、僕が考える自由から程遠かった。そして、もう待ってられないという結論に至った。ハッキリと、自己嫌悪を吹っ切った。
これ以上、今の場所で誰かにケツを拭いてもらい、成果をみんなのものとして扱われるのは、限界。そう悟った。
でも、だからといって会社を見限るという決断には至らなかった。これは僕の甘さなのか、意地なのか、言い訳なのかなんなのか、まだ言葉にはできていないが・・・。
会社と僕。双方にとって希望通りとなる形はなんなのか。考えに考えた結果、ある結論に辿り着いたのであった。
それは、【独立】。今までおぼろげに自分にとって良いことだと感じつつも、リスクの大きさに完全に気圧されていたこの二文字。
だがそれは同時に、「自分の力を試してみたい」という言葉の闇と本当の意味が、腑に落ちて理解できた瞬間でもあった。
自分でつくらねば、遅い。
きっと、「自分の力を試してみたい」という人たちは、自分が他者の下にいるという現状がイヤというサイコな例を除けば、同じくもう待っていられないのだろうと思う。
人生は有限だと認識し、したいことをできないまま死ぬのはイヤだというタイプ。ラクして生きて、ほどほどに稼ぐという価値観とは、真逆の生き方に憧れる感じ。
このマグマが"健全に"噴火した結果、自分の力を試すしかない場に人は行こうとするのではないかと思う。
前向きな理由に見えるが、評価・査定・待遇などあらゆる観点から無言の否定を受け続けた結果、そういう思考に至っている可能性は十分にある。
ー僕は、もう目線を完全に、【2年後の独立】という大きな目標に向けている。引き上げてもらうことはもう、期待しない。
そのためにこの1年、何をして、この独立に向けてどれほどの数値を会社に見せつけるか、そして達成にためにどんな手が打てるか、そればかりを考えている。
そうやって行動していると、今までで一番、仕事が楽しいと思えてきた。何連勤だって、自分に必要とあらば重ねられる。泥臭いことも、嬉々として取り組める。
しかし同時に、悲愴感もある。しくじれば、一生このまま。この程度の器。自分を信じる気持ちと、自分を信じきれない気持ち。僕はもう、必死である。
だが、どうしてだろう、生きているという実感がとんでもなく強い。充実?希望?期待?そのどれもがぐちゃぐちゃに混ざり合って、言葉にできない昂奮になっている。
今が一番、死から遠い。そのことだけは確実だと認識し、もう我慢しないことに決めた瞬間から、今までにない面白さが芽生えてきた。
青臭いのは承知しているが、青臭さを笑うようになったら終わりだと思うので、笑われて上等である。冷笑されても、「これで伸びるよ、ありがとね」なのだ。
「認められない」という現実に晒され続けるより、よほどマシだ。僕はもう、「自分の力を試してみたい」のである。
つまり、成果を否定され続けたという経験が、「自分の力を試してみたい」という前向きな言葉にくるまれているのかもしれないということで。
前向きに聞こえるこの言葉にくるまれている真意は何か。これについては、その当人を泥酔でもさせない限り、なかなか出てくるものではない。
ただ僕自身が、手前味噌だが似た経験をして、ここまで書いたような違和感を覚えてしまったのは事実だ。そしてこれは、遠からず、近からずなのではないかな、と。
義理と人情のダークサイドに当たる話。何が正しくて、何が悪か、本当にわからなくなる分野である。
昔からいた人を守る。それはそれで、もちろん正しい。ではそのために、他の人の頑張りを軽視するのは正しいのだろうか。そんなことを考える僕が、幼稚なだけか?
「人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない。」
この言葉が好きなので、意地でも腐らず、自尊心がへし折れる音を何度か聞きながらも、僕はそれでも踏ん張ってきたつもりだった。
その結果、「がんばったね、おめでとう、これからもあの人の下でがんばってね」という賛辞が貰える。もう、そんなの、僕はなんにも嬉しくない。
今、組織の中で自分が一番焦っているという強い実感がある。時間がまるで足りない。2年という期間で間に合うのか、まったくもって五里霧中である。
しかし、がむしゃらに頑張るためのガソリンは、まだまだ潤沢に存在している。要望を通すという決意だったり、そして現状への強い抵抗だったり。
今日もそれこそついさっき、ぶっちゃけ面倒な顧客への説明責任を、当事者でも責任者でもない僕に、ぶん投げられたところだ。青筋が立った。
「ならば裁量ごと、よこしてよ?ちゃんと俺を責任者にしてよ?」
―ということはもう、思いはせよ、言いはしない。そんな時間とエネルギーすらもう、惜しい。
【大きな嘘の木の下で】という本にも書いてあったが、結局最後に自分の心を支えるのは、素敵な言葉なんてのじゃなく、ネガティブな感情や存在なのかもしれない。
―やはり、前向きな言葉を一皮めくれば、全員がそうというわけではないだろうが、こういう闇と問題点が垣間見えるような気がする。本音と建前の、深淵の部分。
少しでも似た闇を持つ方の胸の内を、この5500字の中で言語化できていれば嬉しい。
では今日はこの辺で。