32歳になった現時点で、一番重要度を高めている問いは、「客観視」についてだ。言うなれば、あらゆる出来事を他人事の視点で感受するという心構えである。
というのも、相手の反応や、何かしらの出来事が”じぶん”に向いていると思う限り、自己肯定か自己否定のバイアスが発動し、判断を誤るかメンタルを病むかするためだ。
興味が無いことや、益が無いことに反応したくない。それを食い止めるには、感受する情報をなるべく減らした方が良くて、かつそのためには、主語が自分だと相性が悪い。
誰しも他人の失敗や言動を全て記憶などしていないものだ。それは他人から見た僕も同じであるはずで、その当たり前のことを再度認識する頃合いだなと。
そんな今、実戦的なトレーニングとして自分にすごく合っているのが、アクションゲーム風に自分を操作しているイメージで、日々を過ごすというものだ。
今日はそんな、ちょっとアホな話を書いてみる。
じぶんとは、すなわちコントローラで操作されているただのキャラクターである。
「龍が如く6 命の詩。」プレイレポート。重厚で衝撃的な展開の連続で,続きが気になって止められない
僕は「龍が如く」が好きである。リアルな街の中を、キャラクターを操作しながら散策し、敵に絡まれればコマンドを入力して殲滅していく。
何十時間も累積でやっているからこそ、そのイメージで自分の生活を眺めることも、実はそんなに難しくないと、こないだ気付いた。
街や建物を歩く自分を、後方ナナメ上から見下ろし、コントローラで操作されているという設定で歩く。時には早歩きする。ドアを開けるときも、キャラの動きを意識する。
その意識に集中していると、不思議なもので、余計な感情や思考が止まる。一つのキャラクターとして機能する自分だけが、そこにいるかのようだ。
移動パートが終わり、何かしらの出来事や事件、別キャラクターの出現などがあれば、僕は「あ、イベントムービーが始まったな」と思うようにしている。
龍が如く6 命の詩。(ゲーム)のネタバレ解説・考察まとめ (5/5) - RENOTE [リノート]
だから、コップを握る際も、「今この動作がアップになっている」という風に、映像作品を見ているかのような感じでそれを手に取る。まぁ、勝手に演技する感じだ。
そして何かしらの作業が始まったら、勝手にミニゲームということにして、僕はハイスコアと短時間でのクリアを目指し、ゲームっぽく取り組んでいる。
やっていることはアホ丸出しなのだが、こんな風に”操作されている自分”という距離感で日常を過ごすことは、かなりメンタルにやさしい。本当にそう思う。
例えばゲームをしていて勇者がスライムか何かに叩かれた際、その心中を推測して心が疲弊した経験がある人はどれくらいいるだろうか?
NPCがあくまでもキャラクターに吐いた暴言を受けて、自分が傷ついた人はどれくらいいるだろうか?
僕も正直、セリフの中身が胸糞であったり、登場人物が無抵抗にボコボコにされたりすれば、自分事として受け止めて疲れることはたまにある。
しかし基本は、本当に現実世界で自分に向けられたそれと思うより、遥かにマシというか、軽やかで、そしてどうでもいいものなのである。
サイコパスも仏教僧も行動が早い人も神経が図太い人も、共通点として、あらゆることを自分事として、良くも悪くも受け止めないというものがある。
客観視の言わんとすることがもしもこの境地であるならば、これからも僕は、僕というキャラクターを操作するなにかであり続けたいと思う。
ということで今日はこの辺で。