僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

「ネガティブ」で片づけず、自分の観察を続けたい。

他人の「自意識過剰」を、シンプルに「キモい」と思ってしまったという話。

今日近所のドラッグストアに立ち寄ったとき、あるアナウンスが聞こえてきた。それは、「6番業務をお願いします」というものだった。

 

恐らく何かしらの隠語だろうが、「どういう意味かな?」と疑問に思ったので、Googleで検索をし、そして、驚いた


「俺が来るといつも【6番業務】って言われるんだけど、俺が何かをしたってこと?」という趣旨の質問が、あちこちにアップされていたのだ。

 

なるほど。その気持ちは痛いほどわかる。自分が常に他者から監視されていて、社会から見てそぐわない何かをしたから、密告されているのだろう。わかる、わかるよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんてことは微塵も思わなかった純粋に、「キモい」と思ってしまった。

 

そして「はっ」とした。自意識過剰や被害者意識は、他人事ならこんなにキモいか、と。

 

この強い恥の感情を、僕は今、徹底的に俯瞰した目線で観察できている。こんなチャンス、そうそうありゃしない。今が内省を深めて、認識を変えるチャンスではないか。

 

今日はここを起点に、「自意識過剰」について、考え方を改めていく。

 

 

他人が自分を視ているという妄想。

 

自意識過剰はどうして醸成されるのか。そしてそれはなぜ、強い抵抗感や嫌悪感を伴うのか。頭では、誰も自分のことなんか見ていないと理解しているハズなのに。

 

その根本原因は、もはや聞き飽きた自尊心の歪みにある。過去に恥や屈辱を感じ、しかもそれを乗り越えられなかったとき、その負の経験がどんどん蓄積される。

 

他人はいつ何時も、自分を貶めようと構えている。飄々としながら、ときに尻尾で虻を叩き殺す牛の如く、どこかに攻撃性を隠している。他人に抱く恐怖が増幅する。

 

結果、他人の目が気になるのだ。とはいえ、他人が自分を視ているというのはただの妄想だ。だが、それが妄想だと気づけない。主観的な感情にジャックされているせいだ。

 

こうなると、このメガネを意図的に替えるのは難しい。主観によって捻じ曲げられた認知の世界で生きている限り、この世界がバグっていると仮説立てるのは困難だ。

 

実際、僕が今回自意識過剰の「キモさ」に気付けたのも、ただの偶然である。ネットに文を投下した、僕以上に人の目を恐れた人たちを知り、それでメガネが外れたのだ。

 

僕はそれを読み、「なぜ、他人がお前ごときにそこまで興味・関心があると思うのだろう」と感じ、刹那、それが僕にブーメランで返ってきた。まさにどの口が、だ。

 

僕は世間を見ているが、世間は僕を見ていない。人間の複数が、構成する1つをじっくり見るとか、そういうのはあり得ない。一握りのカリスマのみ許された注目だ。

 

しかしどうしても、世間が自分を、侮辱の目で監視しているかのような感覚を抱くこともある。僕だってもちろん、まだゼロにはできていない。

 

だから考える。このバグを正すにはどうするか

 

いわば「お前の顔を気にしているのはお前だけ」という、嫌われる勇気にも書かれている考え方を、きちんと腑に落とすこと。これがカギなのではないかと思う。

 

続いてはそのヒントになりそうな実例を、つらつらと書いてみる。

 

「記憶に残ること」を甘く見るな!

diamond.jp

 

そもそも、記憶に残ること自体、とても難易度が高いことを意識し直すべきだろう。それくらい、僕らは世間の構成員に対して、関心がない。

 

その最たる例の一つは、先日とある市内を歩いているときに体験した。僕はそこで、ゴスロリファッションを来た、お人形さんみたいなスタイル・顔立ちの女性を見た

 

ある意味、他者からの羨望を一身に集めそうなほど、天賦の「美」を集めたかのような存在。それでいて、ゴスロリという芯のある嗜好もそこから感じる。

 

凝縮された個を前にして、僕が何を思ったか。実はもう、仔細を何も思い出せない。例えば、その人を絵にしろと言われれば、自分が忘れている部分の多さに気付く

 

髪型は?背丈は?服の色は?身に着けていたアクセサリーは?そもそもどこでも見た?等々。圧倒的な個性を持ったその人さえ、僕はすぐに忘れてしまった

 

僕らの脳は、「他人」の第一印象を一瞬で決めてしまう。いわば、あった瞬間にその人の造形をした「枠」を作ってしまうのだ。

 

だが、その中は空っぽだ。だからこそ、その「他人」を特別な意味を持った「個人」にするためには、その器にいくつも情報を詰め込む必要があるのかもしれない。

 

それは例えば、発言かもしれない。一緒に遊んだ思い出かもしれない。平素から想像できない発言が書かれたブログかもしれない。互いの共通点かもしれない。

 

そういった過程を経て、僕らは世間の要素1つずつ、つまり個人として、お互いの記憶に残る。膨大な努力や才能、時間が必要なプロセス。それが”覚えられること”だ。

 

それなのに、一瞬街中やその辺の店内ですれ違っただけで、どうして僕は他人の記憶に残れるというのだろうか。

 

僕は、世間を恐れすぎというより、自分自身を買い被り過ぎなのだ。僕は、物語の主人公ではない。なぜ誰かが、そんな無個性たる僕を監視する必要がある?

 

仮に僕が誰かさん方の前でクソを漏らしても、僕は名を持った個人ではなく、「うんこを漏らした人」としてせいぜい数日だけ覚えられ、その内記憶から消えていく

 

皆、「どうでもいい人」という器をいちいち満たして逐一特別扱いするほど、暇じゃない。僕自身だってそうなのに、自分だけは違うとなぜ言えるだろうか。

 

有象無象の器とは違う記憶、体験、経験、価値観を共有して初めて、「器」を超えて、誰かは誰かの記憶される傑物になれるのだ。そこには膨大な時間が必要だ。

 

僕は普通に過ごしてれば、まず誰からも記憶されない。透明といったら大袈裟だが、世間から見たら、”いるけどいない”のと同じだ。

 

イワシの群れを見た際、その一匹一匹に思いを馳せないように。あるいは、森を見た際に、その木の一本一本をきちんと区別して鑑賞しないように。

 

僕は世間にいるけど、いない。

 

僕の顔どころか、僕の存在を気にしているのは僕だけなのだ。それに気付けた今、生きるのが楽になっていく手応えがある。

 

もちろん僕の友人、親、職場の人たち、後輩や先輩など、僕の存在を「その他大勢」とは違う分類に置いたうえで、接してくれる人たちがいる。

 

だがそれは、1億2000万という母数を鑑みれば、無視して構わない端数とされてしまうだろう。そして僕は、それくらいの存在感が丁度良いなと、強く思う。

 

終わりに:僕にとっての自意識過剰とは何か。

 

僕にとっての自意識過剰とは、子供の頃に形作られた価値観・思考を、そのまま大人の社会に当てはめた結果生じるバグである。今はそのように考えている。

 

例えば肉親と自分、先生と自分、同級生と自分のように、極めて狭く、かつ全員が全員、他者とは呼べない存在”しかいない”コミュニティを浮かべてみよう。

 

この集団内では、迂闊なことをすれば、構成員全員の「僕」という器に恥が注がれ、全員の記憶の中に好ましくない印象が残る。だから、それを避けるため、過敏になる。

 

しかし、現実はもっと淡白だ。少し遠くに足を運べば、誰も僕を知らないコミュニティが現れる。そこで恥をかいたとて、皆が皆、それを入れる器を持たない。

 

僕は世間にいるけど、いない。

 

”いる”ではなく、”いない”という方に意識を向けること。ドーナツの穴を”ある”と考えるか、”ない”と考えるかという命題に通じる解釈だ。

 

自意識が過剰だと、”ある””いる”と考える。しかしそこを手放せば、”ない””いない”という風に変わる。僕は日頃から、「いるけど、いない」というくらいで構えようと思う。

 

自分が世界の中心であることを止めれば、幸せに繋がるといった話が、【幸せになる勇気】に書いてあったのを思い出した。今再読すると、また違う気づきが得られるかな。

 

ということで、自分の中の闇に一つ区切りをつけたところで、今日はこの辺で。