仏教の教えが最近好きなのですが、そういえばもともと、そういう色が濃い幼稚園の出身でした。中元です。
さて。突然だが、「真面目」という言葉がある。何事にもふざけず、一所懸命に取り組み、手を抜かなければ嘘もつかない。そんな感じの意味だと思う。
ちなみに辞書で引いてみると、真心があり、誠実であることとか書いてあった。思ったよりあっさりしている。
―僕は生まれてこの方20数年、有難いのかどうかわからないが、ひたすらに「真面目さ」が突き抜けてるね!と言われることが多い。
乱暴な言い方をすれば「クソ真面目」といったところか。そしてそれは大抵、「いい人ですな~」という褒めの意味が添えられている。
・・・これは喜ぶべきことなのかもしれないが、実は僕自身は僕のこの性格に対し、複雑な気持ちを抱いている。
理由は、あまり自分がそうであることに、メリットを感じていないからだ。何なら、デメリットの方が多いかも。
そしてこのクソ真面目という気質は、『人見知り』や『ネガティブ』と強い関係がある。言われてみれば、心当たりはないだろうか?
そこで今日は、真面目という性格のワンランク上、「クソ真面目」というものに対して、色々と考えてみようと思う。
クソ真面目の難点。
何事も手を抜かないとか、そういう真面目であろうという姿勢は、意識してようがなかろうが、凄まじく疲れる。
また、真面目さゆえに突き抜けたところとか、常識はずれの一面を出すこともないので、良くも悪くも目に留まることがない。
要するに、これら二つのダークサイド的な話の結果、その他大勢の中に埋もれがちなのだ。
そもそも、真面目一筋で、ちょっとしたミスや妥協も我慢できないという風に、適当になれないのは良いことに思えて、実のところそうでもない。
適当さを求められる場面は意外と多いのだ。
例えば、会話が盛り上がっている場でいきなりジョークを振られたとき、クソ真面目に返して場を少し白けさせたことが何度もあった。
イメージは、『〇〇さんとかどうなん?付き合えば?』みたいなノリに、真面目に理由をつけて『~だから別にいいかなぁ』と返すみたいな感じ。
『そこは【ぜひ!】とか、適当に乗っておけよ~』みたいに茶化されるたび、僕は自尊心の痛みを覚えていた。
適当ってなに?それが分かれば苦労しないのですよ。
実際のところは、気の利いた的確なツッコミなど要らないらしい。このことに気付いたのは割と最近なのだけど。
また、カラオケの場でも、僕は苦労する。
「一番点を取れるのはなんだろう?」「知名度が高いのはなんだろう?」とか考えて、自分の番になっても曲が入ってないということをしちゃったことは数知れず。
ちなみに正解は、知名度や歌の上手下手ではなく、とっとと入れることらしい。
とかく、クソ真面目な生き様は不器用が過ぎて生き辛い。滅茶苦茶疲れる。これらの例から、それが伝わっていれば嬉しい。
―話はちょっと変わるが、僕みたいなクソ真面目野郎の思考回路はどうなっているのか、察しが付くだろうか?
それは、なんでもかんでも「こうでないとならない」と自分に課してしまっているというものである。
ちょっとアバウトすぎるので、もっと詳しく掘り下げてみよう。
理想を求める弊害。
自分に自分の理想像を押し付けすぎているのが原因だと考えると、僕のクソ真面目気質に説明がつく。
さっきのジョークの例でも、「論理的で知的な受け答えをしなければならない」と思うから、変に真面目になり過ぎてしまうと言える。
カラオケの例でも、「高得点を取らないといけない」「知名度の良い歌を選ばないといけない」という考えからあの行動になるわけで。
くわえて、「適当なことをしてはいけない」とそもそも思うからこそ、真面目一筋になったりもするのだ。
僕ら気質の人たちは、適当に振る舞おうとしても、
「人を怒らせないように、迷惑をかけないようにしつつも、適当に見えるように考えて振る舞わないといけない!」
・・・と考えて行動する為、つまるところ本来の意味における『適当』でもなんでもなくなっているのである。
文字にするだけでも極めて疲れるプロセスだ。他にも、具体例については枚挙に暇がない。
「試験で良い点を取らないといけない」「デートは楽しんでもらわないといけない」
「食事は相手の喜んでくれるところにいかないといけない」「部下が被る泥は全部俺が被らないといけない」
などなど、自分自身に降りかかるその後の手間や疲労などをないがしろにした思考に、皆さんはなっていないだろうか?
この辺りは、【誰かのために頑張る自分、素敵!】という要素を差し引いて考える必要が、絶対にある。
他者貢献と自己犠牲は別物だ。 他人のためになる行動で自分が苦しいのなら、即刻改めなければ心を壊す。
やはり、適当さは人生における必修科目らしい。修了しないまま生きていくと、やはりどうにもめんどくさそうだ。
ちなみに僕自身は今のところ、「適当」とは、あまり考え込まずにさっさと行動し、その結果を重く受け止めない一連の流れだと考えている。
これも吹っ切れればめんどくさいヤツなのだが、意識してコントロールできる限り、積極的に使いこなすべき思考には違いないと思う。
終わりに。
さて、今日はあまり人見知りに触れていないテーマだったけど、似たような性格の人が居るのではということで書いてみた。
自己主張が出来ないと、世間一般の考えに触れる機会が少ない。
そうこうするうちに、他者に対する不安がつのり、必要以上に自分を演出するクセが付いてしまう。
理想の自分を追いかけるのは良いことかもしれないが、結果として自分自身に降りかかる心身の疲労はとんでもないものになりかねない。
世間が求める水準っていうのは、僕らが思う以上に低いし、重視されていないものだ。
たまにネットで炎上する結婚相手や新入社員に対する『高望み』は、そもそも少数派だからこそあんな風にやり玉に挙げられるのだ。
そういう一部の人のネタみたいな条件にあわせるために『クソ真面目』を磨き続けるなんて、僕はバカげた話だとしか思わない。
とは言っても、基本、真面目であることは良いことだ。だが、度を過ぎれば何事も悪い方に吹っ切れるもの。
たまには遊び心チックなのをもって日々を生きていきたいなという、よくわからない決意表明で〆とする。
※続編はコチラ
hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com
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