全部で4作になりそうなこのシリーズ。
実はこの章が、一番時間が掛かっている。何故かというと、今のところ僕にとって、この時期が人生のどん底だったからだ。
その辛さをなるべくそのまま伝えようとしたら、やはり表現とかを工夫しないと難しい。書いては消し、消しては書く。
ということで、この章は個人的にかな~り黒い話が盛りだくさんである。できれば、なんか良いことあった日には読まない方が吉。
では、以下続きである。
大学生時代:楽しい日々の裏で、失われていく自信。
僕が進学したのは、結構長い歴史を持つ地方の国公立大学、そこの経済学部だった。・・・といっても、経済学に興味があったからそこにしたわけではない。
取り立てて将来の夢が無いのもあり、卒業後に就職できる業種の幅が一番広いところに行きたかったためだ。
入学してすぐは、オリエンテーション等を通じ、大学のシステムを色々と学ぶことになる。その説明の中で驚いたのは、『好きな授業を自分で取る』というそれだ。
もちろんある程度の制限やルールはあるが、基本『好きなこと』『必要なこと』のみを選んで学習できる制度には、本当にワクワクした。
経済学は意外と面白くて、気づけばミクロ経済やマクロ経済、国際投資論など、カタい授業を色々と取ったものだ。
また、少し変わった部活動を見つけ、そこに入部することに決めた。簡単に言えば、あちこちにある自然を満喫する、そんな部活。
小さい頃から生き物や自然が大好きだったのもあり、僕はそれにのめりこんでいった。僕の前途は洋々だった。
―だがそれは、表向きの話。多くの人や環境との出会いは、本当に色々な刺激を受けたが、それらすべてがプラスに作用したわけではない。
まず、出会った人たちの中には、『逆立ちしても勝てないレベル』の人が本当に数多くいた。
あらゆる社交の場に出て、誰とでも打ち解ける人。僕とは段違いの成績を、短時間の学習で修める人。
当時まだまだ劣等コンプレックスの塊だった僕は、そういう秀才と己を比べては、ちっぽけな自分に情けなさを覚えていたものだ。
自分の価値を自分で落とし続ける日々。今思えば、自分がそうしたくて勝手に『劣等感』を抱いているだけだと納得できるが・・・。
大学生活を楽しみながらも、そこでの出会いで僕の自信を日々崩していったのもまた事実。
頼りの勉強も、まるで歯が立たない。僕は井の中の蛙だったんだ。大海は、こんな身近にも広がっていた。
―極めつけに、ある出来事を強く記憶している。
それは、大学三年生のときの、就活対策の集団模擬面接だ。僕はTOEICという試験のスコアを引き合いに、英語力を強みとして使おうと決めていた。
僕の順番は三番目。緊張しながら僕は、脳内で何度もリハを繰り返す。
しかし、僕の前に発言した女性に、僕は全てを打ち砕かれた。その人はTOEIC900点越えで、留学経験もかなりの年数、重ねていたのだ。
そんな人の後に英語力について語るとか、もはや滑稽だ。僕はしどろもどろで別の強みを答え、その面接は色々とショックな時間に終わった。
その後しばらく、それから立ち直ることはできず・・。帰り道、僕は学内のベンチに座り、ぼんやりと自分の『強み』を思い返していた。
何度、何回考えても、『どんな強みも、自分より上がいるから使えない』という結論に達してしまう。僕は所詮、小物なのだと。
『競争』と『謙虚』を拗らせた結果がこれだ。今なら少なくとも、理性で気付いて制御は出来るのだが・・・。
この時だったかな。自分の生き様に対し、変な方に踏ん切りがついたのは。
『仕方ない。俺は才能で価値を生み出せるタイプじゃない。誰よりも頑張ることで、何とか食らいついていこう。』
―この結論は、当時の僕にはかなりしっくりきた。自分の生き様をハッキリと言葉に出来たという自覚があった。
ある種の悟りを開いた僕は、次の日から再び就職活動に乗り出していった。
この思考が、決意が、後々僕の心を壊すことになるなんて―
その当時は、微塵も思っていなかった。
社会人時代1:『頑張ること』だけを頑張り続けた果て。
就職活動をしていたころ、僕は『人々の生活に身近な場所において、みんなに貢献できる仕事』を軸に据えていた。
過去の経験から、『人を喜ばせること』と、『人のためになること』なら僕は頑張れると、一人結論付けていたためだ。
ならばいっそ、衣食住、それら生活の根幹に関わる仕事が良い。となれば小売業かなと、僕は早々に業種をそれに絞っていた。
そしてある職を僕は得た。自分の希望通りの、小売業。
『学生時代がまだ少し恋しいが、これから始まる日々もきっとかけがえのないものになる。』
入社式のとき、僕はそう思っていた。周りの同期も、きっとそうだったはず。不安と期待が入り混じる、あの感じ。
僕の社会人としての人生は、ある種願ったり叶ったりの状態からスタートできたのだった。
―その後1ヶ月にわたる研修を経て、僕はとある店舗に配属が決まる。当時住んでいた場所から40㎞程度離れた、馴染みのない土地。
その関係で、人生で初となる独り暮らしが決定。それにはずっと憧れていたので、戸惑いと同時に喜びも覚えた。
引っ越しも、自分が配属となる店舗への挨拶もすぐに終了。そしてまず僕は、『とにかく必死に努力を重ねよう』と、考えていた。
弱音は悪。立ち止まる暇があったら精進。新人なのだから、誰よりも率先して頑張らなければならない。そう思っていたから。
―本格的に業務を開始したのは5月頃。最初のうちは少し遅めの出社で、定時に帰らせてもらえるシフトだった。
それも1ヶ月ほどで終わり、僕のシフトは本格的に社員仕様となった。素人を脱したことを感じ、ひそかに喜びを覚えていた気がする。
―どれだけ控えめに言っても、今なら思う。当時の僕は滅茶苦茶必死に働いていた。それこそ文字通り、誰よりも、だ。
やがて僕は誰よりも早く来るようになり、誰よりも遅く帰るようになった。上司より労働時間が短い部下はクズ。そう自分に言い聞かせて。
肉体的疲労は確実に溜まっていたが、頑張らなければ自分に価値はないという強迫観念が勝る。
何度も怒られたし、叱られた。でもそれら全ては、自分が不甲斐ないせいだとしか思えなかった。ならば、もっと頑張らないと。
そのうち、次第に休みも無くなっていった。たまの休日に家にいると、突然職場に呼び出されることもしばしばだったっけ。あぁ、そりゃ色々オカしくなるよなぁ。
段々と、夜寝られなくなっていった。起きたらまた仕事の時間が始まるのかと思うと、怖くて仕方がなかったためだ。
毎日寝る前に日本酒を飲んだ。意識がぼんやりとして、寝るというより気絶をする感じ。そして目覚めると、また無理やり職場に向かう。
『生きるために仕事してるんだっけ?仕事するために生きてるんだっけ?』
僕は何も分からなくなり始めていた。
そんな状態の中、繁忙期が来た。最長、職場に18時間居た日もあったなぁ。
毎日カレンダーを眺め、過ぎ去った日に『×』をつけることで何とか耐え続けた日々。
この期間は思い出そうとしても上手くいかないし、できるとしてもそうしたくない。
とにかくハッキリと、この辺りで自分の心が壊れかけていると自覚するようになった。
ふと立ち寄ったコンビニで、吸ったこともないタバコを覚えたのもこの頃だ。時折むせながら、夜空に煙を吹いたっけ。
不条理なやるせなさ、イライラ、虚無感。そういったものを和らげられるものなら、何でもよかっただけなのだが。
たまの休みに友人と会うと、全員にもれなく心配された。顔色が悪いとか、頬が痩せこけたとか、話しかけても反応が薄いとか。
両親にも同じことを言われた。でも、自分がおかしくなりつつあるかもしれないことは、自分ではよく分からなかった。
心配をかけちゃダメだと、むしろ気を引き締めたような気がする。そしてまた頑張る日々。僕の労働時間は、過労死ラインを超えていた。
終わりの見えない暗闇のトンネルを、毎日背負う荷物を足しながら歩く。この頃はこんな感覚だった。
応援してくれる人はいない。職場の誰かが僕にかけてくれる言葉は、注意か作業の命令がほとんどだった。
―そんな日々で本当に壊れてしまう寸前、たまたま僕に転勤の話が出た。環境が変われば、何かが好転するかなと、淡い期待を覚えた。
新天地ではまた0からのスタートだ。実績はもちろんないし、信用もない。しなければならない努力もまだまだ多い。
よし、"頑張ろう。"
僕は精一杯、前を向いて考えようとした。『誰よりも頑張ること』だけが、僕の取り柄。その時は、そうとしか思えていなかったからだ。
―新しい環境で、また僕は頑張り続けた。やはり、誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰る日々。この気質・・愛しいくらいに不器用だなぁ。
休みはほとんどなかった。7,8連勤は当たり前な状態で、半休の日も8時間労働はしていたものだ。そして連休など当たり前だが、無し。
理由は、人手不足。そして僕はその理由に納得していた。同情したから、ではない。新人が口を出すとかあり得ないという下っ端根性のためだ。
そんなある日、ご飯を買うため、仕事帰りにコンビニに立ち寄ったときのこと。駐車場に車を止めて、一息つき、僕は一瞬目を閉じた。
しばらくして、首の痛みで目が覚めた。時計を見ると、1時間も経っている。こんなに一瞬で寝落ちしたのは人生初だ。
ああ、もう、限界かもなぁ。僕は諦めみたいな感覚を、このときハッキリと抱いた。
そこから大体1週間後、仕事中にやたらと心臓の辺りが痛くなった。周りの人も、顔色の悪さなどをしきりに心配し、指摘してくれた。
無視するにはあまりにも怖い状態だ。万一・・という可能性もある。何よりこの年齢で、まだまだ死にたくはない。
そのまま痛みを我慢しながら働き続けると、大体昼頃に業務が落ち着いた。
そこを見計らい、僕は上司に報告した。心臓の辺りを示しながら、ここの痛みが激しいのだと。
『すいませんけども・・』『すぐに戻りますから・・』と、何度も謝りながら、一旦病院に行かせてほしい旨を、何とか頑張って伝えきった。
その時の反応は、今でも脳裏にこびりついている。
『えぇ?』
―とても迷惑そうな声色の返事。そして、この上なく嫌そうな、苦々しい表情。それが―苦しんでいた僕に対する反応だった。
もちろん、忙しいのはわかっている。そんな中、身勝手な願い出をしたのもわかっている。わかっているけど・・・・。
一切の心配がなかったことがショックだった。これを甘えという人もいるだろうけど、僕はとても、とても悲しかった。
その後渋々ではあるが許可を得た僕は、店を出て、近くの内科へ向かった。
結局そこでは『おそらく問題なし』という診断を受け、痛み止めをもらい、残りの時間は普通に仕事を終えた。
だが帰宅後―僕の中に湧いた疑念は膨らむばかりだった。
『俺は組織の歯車であること以上の価値が無いのではないか?替えの利くパーツであることだけを求められているのではないか?』
先述のやり取りで、僕はハッキリと、『使い捨て』にされる危機感を覚えていた。"あれ"は、僕を大切に考えている人の態度ではない。
体調が悪いことを心配されるのではなく、逆に迷惑そうにされたことは、大げさではなく本当に大きなショックだった。
その後ヤケ酒を飲んだ僕は、次の日の仕事に寝坊してしまった。当然、怒られる。
仕事をナメているのか!迷惑をかけてどう思っているんだ!みたいな叱責を5分くらいされたっけ。
この時、僕の疑心は確信に変わった。やはり俺は、まったく大切にされていない。俺はただのパーツだな。壊れたら捨てられて終わるのだろう。
あーあ、もう、無理だな。無理。僕の心が、ハッキリと折れた瞬間であった。
しばらく怒りは続いたが、言葉が切れたタイミングを見計らい、僕はその上司の目を見ながら、感情が全くない声で返事をした。
『もういいです。この仕事、辞めさせてください。』
僕はそれまで生きてきた人生で初めて―自分から『誰かのために』頑張ることを放棄した。放棄してやった。
今まではどんなに苦しくても、『人に迷惑はかけられない』とか、『途中で責任を投げ出していいのか』といったメタで踏みとどまれていたが・・。
もう無理なものは無理だ。その時は、それ以外考えていなかったと思う。
―ちなみに、上司からの返答は、投げやりな『わかった』というものだけであった。
その後特に引き留められることもなく、1か月後に僕はその職場を去った。尚、それまでの間、僕は裏で『自分勝手に辞めたヤツ』と言われていたらしい。
今までならそういう陰口に過敏に反応していたが・・その時は心底どうでも良かったっけ。どこまでも関心が無かった。
最後の勤務が終わった後は、僕はアパートで何も考えず、電気も点けず、ただ横になっていた。
何かを考えたくても、何も頭に浮かばない。何の実感も湧かない。何かが終わった気も、変わった気もしない。
しばらく経って、やっとあることだけが頭に浮かんだ。
―頑張っても、報われないことってあるんだなぁ。
今思えば当たり前のことを、僕は自分を壊す寸前になって、初めて学ぶことができた。
『自分は特別、何かの才能を持って産まれた人間ではない。努力を重ね、何かを足し続け、誰よりも頑張ることで、初めて認められるんだ。』
それが僕の価値観だった。高校入試も、大学入試も、就職活動も、それで上手くいった。だから次も・・。その考えが間違っていた。
自分で自分を認められない状態で努力を重ねると―自分が壊れる。世界が敵だらけになり、自分が自分を責める。
【好きを仕事にしよう!】【ワークライフバランス!】【自分に優しく!】
当時はそんな言葉が嫌いだった。頑張らないことへの言い訳にしか聞こえなかったからだ。頑張ることは尊いんだ。
だが―頑張っても報われないことって、やっぱりあるんだなぁ。僕はしばらくそんな風に、ぼんやりと堂々巡りを続けた。
この社会に所属する権利を得るための、自分が持つ唯一の取り柄。それが通じないなら、一体僕は何を支えに生きればいいのか。拠り所は何だ。
ふと、僕の頭の中に、『誰よりも頑張る。』と書かれたガラス板が浮かんだ。
それの真ん中にヒビが入る。そこを中心に、蜘蛛の巣のようにそれは全体に広がり・・・。
刹那、そのガラス板は砕け散った。僕が自分の心の支えを失った瞬間であった。
これから何をしよう。これからどうなるんだろう。僕は何に価値を見出せばいいのだろう。
僕は一旦社会からドロップアウトして、ここに深く向き合う日々を送ることになるのだった。
【社会人ドロップアウト→現在編】に続く。
※過去作はコチラ!
hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com
hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com