どのジャンルにも『天才』は存在する。だが、自分の住む世界とは違うところのそれに、僕らは基本興味を示すことは無い。
例えば、今も世界のどこかでは何かしらの能力で称賛を受けている誰かが居るのだが、その人にいちいち思いを馳せたりするだろうか。
しかし、その『天才』は、得てして身近にも存在するものだ。すなわち、特別な才能を持って産まれ、色々な人から称賛され、憧れられる人たち。
自分に関係なければあんなに簡単に無視できるのに、なぜ身近の天才には愛憎入り混じる不思議な感情を抱きがちなのだろう。
もはや彼ら彼女らは『人生の勝者』で、『社会的に負け組寄り』の僕みたいな人間とは色々と対極的な世界の住人だ。
今日はそういった『圧倒的勝者』と『ネガティブ』が上手く付き合うための術を、つらつらと考えてみたいと思う。
まず、勝負や比較は無意味である。
かつてこのブログでも滅茶苦茶に否定したが、僕は『競争』という考え方が性に合わない。
hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com
理由は、定義を広げれば誰でもいつかどこかで『敗北者』だからである。この『結局は勝者になれない』という思いを持つ人間は、天才と己を比べてはならない。
もちろん外野として、天才をすげーというのは勝手である。ただ憧れるだけなら、むしろ健全かもしれない。
だが、そのモノサシを自分に当ててはいけない。自分に相当な才能が無い限り、結果それは不幸しか生まない。
『あいつは全然勉強していないのに、校内で一番点数が良い・・』で止めればいいものを、『一方俺は何なんだ・・』と思うのは最悪だ。
こういう思考を持つ限り、才能ある人間は自分の敵としか見られなくなる。嫉妬にまみれた人間の末路は惨めなものだ。色々な漫画を見ればわかる。
―だが、僕自身も長い間、この考え方から抜け出せずに困ってきた。自尊心を自分で毎日へし折る日々。
努力をしていないのに、自分より成績の良い人。自分より遥かに大きいコミュニティを創り上げる人。何なら、僕より背が高い人。
そういう人を見るにつけ、自分に欠けているモノを指折り数え、落ち込んでいた。その日々が懐かしく、愛おしく、そして吐き気がする。
最近こそやっと『競争』という舞台から意識してドロップアウトできつつあり、結果『圧倒的勝者』と割と折り合いをつけて接せられるようになってきた。
逆に言えば、『比較グセ』を持っている限り、『圧倒的勝者』と健全に関わり合うことは不可能だと言える。
・・ということでまず意識しなければならないのは、『天才と己の比較は無意味』という一点だ。これを知らないと、誰も幸せにはならない。
―しかし、この意識を持とうと努力しても、いとも簡単にそれを粉砕する要素がある。それは、『他者の声』だ。
次項では、これとの向き合い方を考えてみる。
『優越コンプレックス』気味なコメントは、意識して無視。
僕の周りにはチラホラいたのだが、何かしらの結果を出した時、それを打ち消すような人と成果を引用する人間はいなかっただろうか?
例えば、『〇〇ちゃんは90点超えてたよ!』『××の行っとる高校には、〇〇大学に行ったヤツがおるらしいよ』等々。
こういう声に、僕たちネガティブは非常に弱い。結局は敗者じゃねえかと、自分を肯定するのが難しくなってしまう。
こういうことをナチュラルに言ってしまう人には、一体どういう心理が働いているのだろう?
そんなことを考えていると、嫌われる勇気に『優越コンプレックス』という言葉を見つけ、同時に『コレだ!』という感動を得た。
どういうものかと言うと、以下の通りである。
あたかも自分が優れているかのように振る舞い、偽りの優越感に浸ること
うーん、なんか健全な響きではない。実は、上記のセリフには、全てがそうとは言わないが、隠されたメッセージがあるものだ。
『〇〇ちゃんは90点超えてたよ!』→その人を友達に持つ私すごくない?
『××の行っとる高校には、〇〇大学に行ったヤツがおるらしいよ』→だからお前は下だよ!
的な。だいぶ漆黒の闇にしてみたが、自分に自信を持っている人間は、相手の何かを落とすようなことは確かに言わないものだ。
こういう背景を知っておけば、自慢の無意味さも、謎の他者自慢に腹を立てたり落ち込んだりする無意味さも、理解できると思う。
相手の発言から『優越コンプレックス』の香りを感じ取ったのなら、そこから先の発言には取り合わないのがベターだ。
適当にスルーしても良いし、とりあえず乗っかったうえで喋らせてもいい。間違ってもその矛先を自分には向けないことだ。
僕はこれを知ってから、相当に気持ちが楽になった。皆さんはどうであろうか。
※この心理について一層詳しく知りたい方は、こちらの記事がオススメである。↓
終わりに。:結局、『圧倒的勝者』とどう向き合えばいいのだろうか。
僕の周りにも、『圧倒的勝者』はたくさんいる。僕は彼らとどう付き合っているかというと、実を言うと何も意識していない。
何かしらの能力が秀でているのは認めるが、それが何かの決定打となり、交友を深めるか疎遠になるかとはならないと感じる。
僕より圧倒的に勉強ができ、僕より圧倒的に人づきあいが上手で、僕より圧倒的に身なりが整っている。
だから何だというのだろう。何かにどれだけ秀でていても、僕に合わなければ、僕はその人にいかなるリソースも使いたくない。
つまり、結局はコチラの考え方次第なのだろう。『圧倒的勝者』に嫉妬を抱いたり、憎悪を抱いたり、究極それも自由である。
だが、そういった存在を刺激に自分も頑張りたい、或いは純粋に友達になりたいのなら、そういった負の感情は意識してシャットダウンしなければならない。
『天才の存在』は認めた上で、自分を卑下しない。自分を貶めようとするコメントは、徹底的にスルー。
そうすれば、そういった恵まれた存在とも、色々フェアに渡り合える気がしてならない。
―ということでいつになく抽象的なテーマになってしまったが、何かしらのヒントが書けていれば幸いである。
それでは今日はこの辺で。