何だかんだで歳を重ねるにつれて、昔の僕が妄信的に信じていた言葉の『くだらなさ』や『危うさ』がよくわかるようになってきた。
そして最近は、『責任感が強い』という言葉に、それらを感じるようになってきている。
『お前は責任感があるなぁ!』『いやぁ、あなたほど責任感がある人はいないっすよ!』
といった歯が浮くような褒め言葉を頂くたび、僕は片手で後頭部を掻きつつ、『いやー、あざます』と呑気にニヤニヤしていたものだ。
だが、今ははっきりと逆である。
そういう言葉を言われるたびに、胃の辺りが重くなる感覚がある。なんなら、『責任感があるなんて誉め言葉は、従順な人間を操作するための洗脳』とさえ思う。
今日は、正直その言葉を言われて嬉しいと感じるあなたに向けて、僕なりの警鐘を鳴らしたいと思う。
『責任感』が強すぎる人間の成れの果て。
少々言葉を強くしながら、色々書いてみる。
『責任感』が強いとは、『何が何でも与えられたタスクにコミットする』という意味合いで間違いない。
だが、美徳にさえ聞こえるこの『何が何でも』というのは、大体『心身を過剰なまでに酷使して』という意味である。
例えば、作業が間に合わなければ、ご飯も食べず、身を削って残業し、早出もし、そして休日も潰し、それに取り組む。
それでもしんどければ、某ドラマよろしく、『熱意』という手段に出る。土下座、始末書、その辺だ。勿論、自責の念を抱え込むのも忘れない。
―こんな状況で、健康な生活を維持できるわけがない。遅かれ早かれ、『うつ』へと突入するのは自明である。
鬱病患者の症例をまとめたログにも書いてあるが、心身疲れ果てた人間は、支援の手すらも自分への攻撃と受け止める。すなわち、手遅れになることが多いのだ。
『手伝おうか?』→『もう見ていられないほど、俺の働きぶりはマズいんだな・・・』
『もう早く帰ったら?』→『ここにいるだけで迷惑なのか・・』
という具合である。運よく人一倍の能力が備わっていれば、強すぎる責任感があろうと色々切り抜けられるだろうが、その望みは極めて薄い。
―これは悲観論だろうか?僕は、そうは思わない。
一度心を壊した人の記録を読んでみると良い。そうなった人たちは、悲しいほど『真面目』で『責任感』が強いのだ。
僕が思うに、『責任感』が強すぎる人間の成れの果ては、『心の崩壊』である。だからこうして警鐘を鳴らしている。
あなた自身にその傾向は無いだろうか?或いは周りにそんな人はいないだろうか?
こういった問いをきっかけに、気付くことから全ては始まるのである。
『責任感が強い』のは、言い換えれば『短所』です。
次は、『洗脳』に近い『責任感信仰』をチクチク指摘してみる。
『責任感が強い』という言葉は、実は『その人の短所』を耳触りよく言い換えただけに過ぎないことが多い。
手段を選ばず、柔軟に対応もせず、時間が掛かろうともやり切りコミットする。これはつまり、『頑固』ということではないだろうか?
ドリルが発明されているのにハンマーを使い続けるようなことをしてでも、最初に決めた方法をやり通すのは、美談ではなく時間の無駄だと言える。
ただ本人にそれを伝えると、その汚名を返上しようとまた変な方向に頑張るかもしれない。
そういう気遣いがあると、大体『責任感がありますね』という当たり障りのない評価になるものだ。やはり褒め言葉ではない。
そして、もっと悪いケースだと、『責任感が強い』≒『めんどくさいヤツ』と思われている可能性もある。この理由は結構根深いので、後述する。
―こういう風に考えれば、能天気にこの言葉を受け止めるのはナンセンスだとよく分かる。少しは見方が変わっただろうか?
しかしそれでも『いや、俺は責任感が強みなのだ!』と思ってしまうあなたのため、もう少しダークな話へ突っ込んでみよう。
『責任感』は他者に伝染します。その症状は、『疲弊』です。
さっき、こんなことを書いた。
そして、もっと悪いケースだと、『責任感が強い』≒『めんどくさいヤツ』と思われている可能性もある。
この理由は結構根深いので、後述する。
この項では、それについてまとめる。この場合、『責任感が強い』という言葉は、ただの『皮肉』という意味合いで使われている。
先ほど述べた通り、『責任感が強い人』は結果にコミットするためにあらゆる手段を尽くす。そして大体それは、『自己犠牲』の名のもとに行われる。
さて。ぶっちゃけこういう人が組織にいると、僕が感じることをハッキリ言う。『めんどくせぇ』である。理由は主に2つ。
まず、人間の性とは面倒なもので、場面によってはどうしても、『頑張っている人がいるから・・・いるのに・・・』という後ろめたさを抱いてしまうからだ。
例えば、定時になっても誰かがバリバリ仕事をしていると、どうにも帰りづらい空気を感じることはないだろうか。
或いは、誰かが休日に仕事をしていると思うと、不思議な後ろめたさを感じることはないだろうか。
僕は昔あった。最近は神経が良い意味で図太くなり、その辺は平気になったが、同じ悩みを持つ方は多いだろう。
こういうとき、『責任感が強く仕事をしまくる人』は、こっちの心理に変な負担を掛けるヤツ、つまり『めんどくせぇ』と思う対象になってしまう。
これがまず1つ目の理由。
そしてもう1つは、責任感の強い人を引き合いに出し、他者のケツを叩く人が出てくるからである。
例えば、こちらが定時で帰ろうとしたり、抱えてる仕事を渋ったりすると、割とよく『アイツは頑張ってるんだぞ?』というフレーズが飛び出す。
うーん、それとこれとは関係ない話だと思うのだが・・・。
だがやっぱり、『同調圧力』とはめんどくさく、その言葉を突っぱねるのは優しい人ほど難しいことだと思う。
『超がんばる人』がいるせいで、『全体が頑張らされ』、そしてチームが『疲弊』する。
こんな風に、『責任感が強い』ことは、チーム全体にデメリットをまき散らすリスクもあるのだ。
やっぱりどうしても、手放しに称賛することは出来ない。あなたの頑張りが他者を蝕んでいるかもしれないとか、怖い話ではないか。
頑張れば必ず報われるってのは小学生の論理である。引き際ってヤツもこれからは凄く大切なので、一旦見つめ直してみてほしい。
終わりに。:少しくらい適当でいいんですよ、マジで。
ブラックがどうとかワークライフバランスがどうとかで、最近こそ世間の見る目は優しくなったが・・・それでもまだまだ、『怠惰は悪』と考える価値観は根強い。
『60分という平等に与えられた時間の中で、45分やって15分休憩するヤツより、頑張って60分全部作業した方が良いに決まってるぜ!』
―みたいな。そういう人は、このデータを見ればいいと思う。↓
少しくらい適当でいいんですよ、マジで。
究極、24時間全部仕事ができれば最強だが、そんな生活は三日ともたず、多分入院か、最悪死をもって終了する。
さて。
『責任感が強い』と言われ、少し喜んでいるあなたに訊く。
「あなたは一体、何にコミットしているのか、説明できますか?」
―もしそれが『頑張ることそのもの』であるのなら、色々見直すべきだと思う。出さねばならないのは、厳しい話だが『結果』なのだ。
『結果』を出すには、根詰めて頑張るばかりでなく、ある程度のバッファが必要なのは、数多の研究で立証されつつあることである。
新生活が始まることで環境が変わり、もしかしたら肩に力が入りまくっている人がいるのではと、こんな記事を書いてみた。
少しでも響いていれば嬉しい。
では今日はこの辺で。