最近の楽しみは、帰ってからゴロゴロしつつ、ア・ラ・ポテトを貪ることです。デブまっしぐらの中元です。
はい。突然だが、皆様には、正直負の感情を向けてしまう他者は存在するだろうか。嫉妬、不満、憤り、エトセトラ。
かくいう僕には、ネット上、現実問わず、それなりにいる。
そしてその気持ちがどうにも強く、自分の感情をハックされているときは、冷静になるための手段として、最近は色々なテキストを読むようにしている。
・・・そんな折に最近ふと気づいたのだが、他者に対し嫉妬や不満を抱くメカニズムについて、その答えは、言葉は違えど、ほとんど同じではないだろうか?
例えば、「他人を指さして批評するとき、残りの指のうち三本は自分を向いている」とか、「他者は自分を映す鏡だ」とか。
こういったセリフが言っていることはつまり同じだ。原因は自分にあるのだから、他者に不満をぶちまける暇があったら、自分を省みろ、といった感じの内容である。
他者を通じて自分のコンプレックスを見せつけられているからこそ、それに不快感を抱くのだから、むしろ謙虚に自分を見つめる糧とすべき、とも書かれていた。
なるほど。
20代半ばの頃は、これこそが器が大きい人間の思考だと考えて、さして疑問を持つこともなく、それができるように頑張ろうとしていた記憶がある。
―だが今は、妄信的にそれを鵜呑みにすることは、もう無い。なんなら、「いや、全てそれで片づけるのも乱暴でしょ」というのが正直な気持ちである。
今日はそんな内容で、記事を書いてみようと思う。
冷静に考えればそこそこオカしい、「他人への不満はいずれも自分のコンプレックスの裏返し」説。
なぜ腹落ち感がないのか。一旦、別の言い回しで表現してみよう。
「他人の言動に不満を抱いた際、そこにはあなたが見たくない、触れられたくない、あなた自身が好んでいないメタが現出しているからこそ、そう思うのだ。」
―うーむ、やはりどうにも腑に落ちない。不満を持った時点で、器の大きさの段階からその人に完敗している、というメタが聞こえるためだ。
本当にそうなのだろうか。・・・具体例を考えると、すぐ違和感に気付く。
ゴミを平気でポイ捨てする人。人の手柄を平気で自分のものにする人。大声で自分勝手な理屈を振り回す人。さも当然のように列へ割り込む人。
どれもこれも憤りや不満を抱くのが自然な言動なのだが、こういった行為の中に、僕は僕が嫌いな僕を感じることは、正直、無い。
僕は平気で公共物を汚せない自分が嫌いだから、ゴミを道路に投げ捨てられる人を羨ましく思う・・とでも?なんとまぁ、アホくさいロジックだろう。
これを言葉にするのは不思議とタブーとされるのだが、残念ながら、何をどう解釈しても、1㎜も尊敬の念を抱けない人は、一定数存在する。
例えば、Twitterなどに大量に存在する揚げ足取り論破合戦のノリとか。あれの何を、自分へフィードバックすればいいのか。考えても考えても、首を傾げるばかりだ。
強いて言えば、「自分は絶対に加担しないようにしよう」「人に言わないようにしよう」「こんな不毛なやり取りに消耗しないために、心を鍛えよう」といったところか。
そう考えれば、他者に不満を抱いた際は、自分のコンプレックスの裏返しだ~という主張も、ちょっと違う意味合いを帯びてくる。
勝手に解釈を変えると、「その違和感を取っ掛かりにして内省すると、自分の価値観がわかるかも。てかそれくらいしか使い道無いよ」という助言ではないかな、と。
なぜ自分が論破合戦に不快感を抱くのかを言葉にすると、意外な自分の潜在意識に気付けるかもしれない。己のメタを意識下に引き上げられるかもしれない。
しかしその程度の活用が関の山。基本的には「まぁ、そういう人もいるか」と受け流し、そして忘れてしまうのがベスト。
実はそれくらい、割と適当なことを言っているのではないかなと、ここまで書いて考えるようになっている。
真に受けすぎると、すぐ自己否定に突っ込む、割とハイリスクな自問だ。自己重要感が低い自覚がある人は特に、この教えはほどほどに受け止めておこう。
尚、他者に対して強い嫉妬の気持ちを抱いている場合は、それはほぼ例外なくコンプレックスの裏返しと考えて差し支えないので、色々自己を省みる糧とした方がいい。
例えば彼女持ちに不満を抱いたら、それは嫉妬と考えて、自分を高めるモチベーションに昇華させるべきではなかろうか。
全部を一絡げにレッテル貼りするのではなく、一歩立ち止まって観察してから、嫉妬なのかただの不快感なのかを考えた方がベターだと感じる。
他者の言動は、どこまで自分のせい?
今年読んだ本で一番学びが大きかったものを選べと言われたら、現時点では【観察力の鍛え方】か、【私とは何か】のどちらかになる。
後者の本で出てくる「分人」という考え方は、学べば学ぶほど、特に思春期に抱きがちな「本当の自分」に対する、全く新しい洞察をもたらすこと請け合いである。
この「分人」というモノサシをあてて、ここまで書いてきた話を考えると、また見え方が変わってくるので面白い。
少し間違っているかもしれないが、分人とは、他者との相互関係によって立ち上ってくる自分の人格の1つであり、【個人】をさらに分けた後の話になる。
例えば、親兄弟の前の自分、友人の前の自分、上司と接する自分。その全てがばらばらで、時には価値観さえ変わってしまうという人もいることだと思う。
だから悩む。一体どれが本当の自分で、一体どれが仮面を被った、偽物の自分なのか。厨二病に罹患してようがなかろうが、誰もが通る自問だと思う。
それについて、どれかが真の自分なのだと考えるのではなく、そのどれもが自分という人間の一つなのだと考える、というのがざっくりとした分人の考え方だ。
原子核の周りを電子が回っているモデルのように、心のどこかに核となる自分が既にいて、偽りの人格がそれを流動的に覆うという考え方とは反対の話である。
どちらかと言えば、最近話題の管理者不在な組織の構成に似ている。1つ1つのポイントがネットワーク状に繋がって、1つの総体を形成するように。
―そう考えれば、悪態をつく人間がそうする原因が、仮にあなたにあるとしても、その否はどこまでいっても50%に留まるような気がしてならない。
例えば僕は、一人称をうっかり「俺」といったことで、上司を軽くキレさせたことがある。そのときは自分の不注意を嘆いたが、今はぶっちゃけ軽蔑している。
「確かに一人称を間違えたのは自分だけど、その自分に対し、キレるという分人を出してきたのは相手の器だよね」という風に。
無責任と言われればそれまでだが、冷静に考えれば、僕らは他人の人生に干渉することはまずできない。だからこそ、割り切った方が色々とラクだし正確だ。
自分の思想や施しが誰かの人生を変えるなんてのは、仮に親子程度の強い繋がりがあっても、気が遠くなるほどの長期間の関係や偶然を経て、成されることである。
頭に来ても、アホとは闘うな。相手が不愉快な気分になったとして、あなたに否があるのは最大でも5割。もう5割は、相手の分人の問題だと差し引いた方がマシ。
そしてそれは逆に、自分が何かしらの不快感を抱いた際も、5割は自分の中にファクターがあるという話にもなる。
あいつが悪い。俺が悪い。そんな風に過度な単純化をせず、あいつも悪い。俺も悪い。という風に助詞を一つ変えるだけで、心はだいぶ中立に戻る。
分人主義という考え方、心がスッとラクになるので、オススメである。
―ということで最後は結構脱線しちゃった気がするけど、今日はこの辺で。