最近、【責任者】という言葉が嫌いになってきた中元です。
突然だが、皆様は、学校の授業で道徳を習った世代だろうか?僕はゴリゴリに習った世代なのだが、記憶にあるのは「ネパールのビール」だけである。
はい。そんな道徳教育のおかげなのだろうが、僕は20代前半まで、「どんな人もバカにしてはいけません」という風に考えていた。
大抵そうやって胸を聳やかせるのは勘違い野郎であり、最終的には痛い目に遭って終わる話がほぼ全てだからだ。ウサギと亀、アリとキリギリス、などなど。
―だが、ここ最近は、そうやって妄信的に、自分以外の全員が、無条件で自分より優れていると思いこむことを、意識的に止めている。
ひろゆき風に言えば、「自分は自分、他人は他人、アホはアホ」という感じだ。
すると、どうなったか?期待するのを止めたのと同じくらい、ストレスが減ったのだ。
ってことで、それをテーマに記事を書いていきたいと思います。
無理してアホの中に優れた点を見つけなくてもいいです。
昔、日雇いバイトの現場に、全身に逆鱗があるタイプの監督がいた。指示はゼロ。手伝おうとすれば、「触んな!」と激怒。
見ていたら、「何もせんなら帰れ!」と激怒。どうしようもなくなったので、シレっとそこを離れて、別の現場に移動した。
その際の僕は、「どう声掛けをすればよかったのか・・」と、自分に否があるという前提で、内省したのを覚えている。
まぁ、当時はニート状態で、金も社会的地位もなかったからそういう自責マインドセットになったのだろうけれど・・・。
今はぶっちゃけ、はっきりと、その現場監督について、ヤバいくらい無能なヤツだったとしか考えていない。
「ここまでマネジメントが下手な人間って、マジでいるんだなぁ」と謎に感心するくらい、今は見下している状態だ。
強いて感謝するとすれば、驚くほどヤバい例を体感したことで、大抵の理不尽をそう思わなくなるという耐性ができたことくらいかなぁ。
ーこんな風に、本気でヤバいヤツは、あなたが悪いなんてこたぁなくて、単に無能なだけという可能性の方が高い。
そいつになんか怒られたとして、あなたが何か粗相をしたとか、隠された真意・教訓はなんだとか、考えを向けるだけ無駄だ。
「あっ!ヤバいヤツだ!」と思ったら、以上。なるべく関係を持たず、さっさと遠くへ行く方が正解だと思う。もちろん今後の人生で、時折思い出す必要など皆無。
それ以降の人生で、僕は何人ものアホと出会ってきたが、僕に全面的な否がある場合を除き、基本は動物と考えて、記憶の彼方へ飛ばしている。
例えば小中高校では、どんな人にもいいところはあるのだから頑張って探せと教わりがちだが、その理由は簡単で、それらの空間は閉鎖的な環境だからである。
人間関係が簡単に変わらないからこそ、不平不満を抱えながらぎくしゃくするより、いいところを見つけた方が健全なまま数年をやり過ごせるよねというのが真意だろう。
ただし大学以降は、その気になれば自分が所属する集団を変えたり、人付き合いを選んだりすることもできる。無理に良いところを見つける必要さえないのだ。
無理してアホの中に優れた点を探さなくてもいい。だって、無いものは、無いのだから。
自分が苦手とする人に好かれたら、それはあなたが苦手な人に近づいた証拠。
人間関係についての齋藤一人さんの言葉で、すごく好きなフレーズがある。それは大体、こんな感じ。
あなたが嫌いな人に好かれようとしなくていいの。もしその人に好かれたら、自分が嫌いな人にあなたが近づいちゃったってことなの。
類は友を呼ぶっていうでしょ?嫌いな人は嫌いなままでいいの。自分がイヤなヤツになっちゃおしまいだよ。
―この一言を知ったときは、びっくりするほど肩の荷が下りたのをまだ覚えている。人間関係におけるストレスが驚くほど氷解し、また他者評価が、くだらなくなった。
嫌われる勇気にも書いてあった気がするが、他者の顔色を窺って、軋轢を徹底回避すると、自分自身を見失うとはよく言われる。
だがそれだけじゃなく、そうすることで、自分が元々嫌いだと皮膚感覚で理解していた側の人間に近付いていくとか、もう救いがないではないか!!
自分のことを嫌ってる人がいたとして、その人のことを言語化できる理由があって自分も苦手としているときは、徹底スルーが基本。
究極、どうでもいい相手には不干渉こそ健全な対応なのだと、再認識できる考え方である。
大局観として正解なら、臆せず手を出せ。
ところで、反対意見にはどこまで耳を貸すべきなのだろうか。ここの判断には、かなりの予備知識と、論理的思考力、あとは経験値が求められるような気がしている。
なぜこんなにスキルが要るのかというと、【本当に親身な助言】と【ただのイチャモン】と【ポジショントーク】は、その一つ一つが極めてそっくりであるためだ。
特に前例のないアイデアだったり、劇的な方策だったりすると、何か言われない方がレアである。そこを押し切れるか、どうか。
ここの乗り切り方は、2つあると思う。まず1つは、相手に議論する気がある場合だ。究極の理想で言えば、ピクサーのブレイントラスト会議である。
この場合は、第三者が居る状況を作ったうえで、積極的にアイデアを出し合い、練り上げていくのが一番健全で、大変だが楽しい時間である。
だが、これは少数派だ。圧倒的に多いのは、相手が単に責任を取りたくない場合である。この場合の判別方法は割と楽で、意地でも代案を出さなければグレーだ。
「社会的にみてどうなのか・・・」「前例がないことに手を出すのはいかがなものか・・・」といって、立場をぼかしてコメントをし、決して主語を自分にしないのがこのタイプ。
この場合はどうするかというと、無視していいと僕は考えている。仮に失敗したら、こいつらにキャッキャとなじられるが、僕も見下しているのでどうでもいい。
意見はあくまで参考材料であり、大局観を使って現状を考えた結果「正しい」と思うのであれば、僕はその手を採用するのが良いと感じている。
もっとも、独りよがりになって大失敗するという例も非常に多いので、少なくとも自分が決めた人には必ずコメントを貰うというプロセスは経た方がいいかもしれない。
終わりに。
人類皆性善説は尊いと思うけれど、残念ながら、僕はそうじゃないと感じている。理由は、反例に当たる方々から、それなりに被害を受けてきたからである。
そういう人たちを無理に善人と解釈し、いいところを見つけられない自分を悪という風に考えるとは、馬鹿馬鹿しすぎて笑えてくるほど愚かだと言える。
まぁそれが自意識をこじらせていた頃の僕なのだが・・・。今思えば、もうちょっとくらい、心のどこかで斜に構える部分があってもよかったのでは、と思う。
ということで、今日はこの辺で。