最近書いてある内容を思い出したくて、以下の本をもう一回読んでいる。(別に病んでるわけじゃないけど)
鬱病のメカニズムや、それに繋がるメンタルの揺れ動きについて、独自ながらわかりやすく筋の通った論理で書かれており学びの非常に多い本だ。
その中で、今現在はちょっとうろ覚えなのだが、『子どもの頑張り方』みたいな項目がある。
簡単に言えば、『学校教育等の価値観を大人になっても適応すること』や、『極端なまでにシンプルな二元論に落とし込んで物事を解決しようとすること』がその内容。
もっと噛み砕けば、『ぜんぶできないとダメ』だとか、『ひとにたすけをもとめるのはワガママだからダメ』というロジックで、この社会を頑張ろうとする感じである。
これを見れば色々と心当たりがあるのだが、僕はまだまだ自分に子どもの頑張り方を使ってしまっているなぁ、と。
そして、自分に正直になるのが苦手な人は、得てして、それをワガママに振舞うことと勘違いしているよなぁ、と。
今日はそれら2つについて、ネガティブなことを書いてみむ。
自分に正直であることは、ワガママより高次な話ってだけ。
まずは違いを説明するため、『ワガママ』な言動を思い浮かべてほしい。
例えば、モノを買ってもらうためにおもちゃ屋の前で暴れるのもそうだろう。自分の仕事を人にお願いだけして肩代わりしてもらおうとするのもそうだろう。
となれば、『ワガママ』とは他者に迷惑を掛けながら、そして信用をかなぐり捨てながら、自分の目標を達成すること、欲望を通すことであると言えそうだ。
別に『自分勝手』と言い換えても構わないのだが、結局同じことである。
―だが『自分に正直』なのも、己の欲望に従うという意味では、スタートは同じである。だからこそ、この2つを混同してしまう人が多いのだろう。(僕含め)
しかし実際は、『自分に正直』であることとは、『ワガママ』よりも遥かに高次な行動を伴うことが多い。
次はそんなお話。
自分に正直であるために必要なモノ。
一言で言いきっちゃえばそれは『努力』である。
例えば僕だと、一日24時間は、好きなこと・やってて面白いことでなるべく埋めたいと考えている。(当たり前ですけどね)
しかし、それを上司とかに『僕は好きなことだけしてたいんです(ドヤ』なんて宣言しようもんなら、マジでウザいクソに早変わりしてしまう。
ではどうするかというと、それを実現するために必要なことを分析し、『努力』するしかない。
先の例で言えば、僕はチマチマしたデータ計算がクソ嫌いなので、勝手に関数を組み替えたり、別の人でもできるようにチョチョイとフォーマットをいじったり。
つまり、『嫌なことをする時間を限界まで削る努力』は、我ながら結構取り組んでいると思う。
ここまでしてワガママ!といわれた日にゃ、そいつの精神が幼稚なだけだと捉えて呆れちゃうぜ。
ということで、『自分に正直なこと』と『ワガママ』なことは、『努力』や『他者への被害』の有無という意味で、結構別物だと分かっていただけたと思う。
ここをうやむやにして、全部抱え込むようになれば、早晩精神がぶっ壊れるのは自明。自分の価値観を知っておくことは、ワガママでもなんでもない。
そもそも、『すべきことをしろ』というのは使う側の論理だ。極論、そうやって仕事を押し付けてくるとき、ワガママなのはさてどっちでしょうねぇ、と。
目上の人が無条件で偉いとかあり得ないのだ。もちろん僕も後輩からそういう目線で色々と思われるだろうが、仕事にハリが出るので望むところである。
ってことで、今一度『自分に正直かどうか』の質問にイエスと答えきれないのであれば、しっかりと『じぶん』ってヤツに向き合ってみてはどうだろうか。
では今日はこの辺で。