正月休みに入った。この正月は徹底して自分を甘やかそうと決めているため、特にやるべきことも定めず、その時その時で自分の心に従った行動を起こしている感じだ。
そうやって普段の仕事(もとい仕事に用いている分人)からクラッチを切ってみると、ある不思議なことに気が付く。それは、ストレスが嘘みたいに減る、ということだ。
あれだけイライラしていた仕事の丸投げも、堂々としたサボりも、日常から消えればここまでスッキリと霧散してしまうのかと、何なら驚くほどである。
今の僕は、本当に心穏やかだ。誇張抜きに、胸の内は雲一つなく、さわやかに晴れ渡っている。季節は冬だが、秋晴れの如き爽やかさである。
―ただ、ここからは少し病気みたいなことをいう。僕はこんな風に、環境が変われば他者に対するネガティブな気持ちを持続させられない自分が、実は嫌いだった。
「仕事中には嫌なところを見るにつけイライラするくせに、離れてしまえば何なら許容する気持ちが生じるとか、矛盾してないか?都合が良すぎるのではないか?」
・・僕のメタが頭の中で叫び散らかす。思うに、僕は一貫性が無い言動が嫌いなのだと思う。そしてその厳しさを自分にも無意識に向けているのかなと、少し考えている。
相手を嫌うなら、自分も嫌われる覚悟をもって、四六時中嫌われる覚悟を持てよと、僕のメタは言いたいのだろうか。文字にすると、本当にヤバいことを考えている。
他人のネガティブを許せない自分と、許せる自分、どっちの方がお前なのかはっきりしろと詰め寄られている気分である。
しかし本当に、もしそういう問いの答えをメタが訪ねているということであるなら、僕はこう返事する。
「どっちも俺だけど、それがなに?どの自分が正しいとか、そんなん考えても無意味だよ」
―自己嫌悪が強い人ほど、確固たる正しい自分という考え方を見つめ直した方がいいかもしれない。今日はそんな話を書いてみる。
"じぶん"という自我は、他者との関係性と環境によって必然的に変わるもの。
仏教の思想を学ぶと結構序盤で学べるのが、【自我】という存在の不毛さだ。万物は流転する。いわんや自分という存在をや、ということだろうか。
例えば空に浮かぶ雲をじっと眺めれば、少しずつ形が変わっていくのがわかるように、”じぶん”という存在もまた、流れながら常に絶えず変化しているものなのだ。
自覚するのは難しいが、端緒を掴むのはそんなに難しくない。あなたは3分前に、自分はどんな感情をしていたか、パッと答えられるだろうか。僕は、無理だ。
これくらい不確かであいまいな存在である”じぶん”なのだが、さらに言えばどこに誰といるかでも容易く変化するし、同時にある程度固定化されるという特性もある。
一見矛盾するようだが、こんなケースを紹介する。今だから言うが、僕は前職に就いている頃、職場に通うのが、それだけで毎日とんでもなくストレスフルであった。
そこで職場を同じくする人が、どこに地雷があるか全くわからず、些細なことで感情的になり八つ当たりをしてくる方だったのだ。
同じ空間で仕事をする内に、実際に心を折った人も、後から聞いた話なのだが数名いたのだという。そんな人と空間を共有すれば、心は猛烈に疲弊していく。
いるだけで憂鬱だし、怒られたら辛い。当然コミュニケーションだって取れるわけがない。それでも攻撃をされるので、本当にきつかったのを少しだけ覚えている。
―こういう日々を繰り返すうちに、段々と僕の負の感情は、この人から、場所そのものに、拡大されて紐づけされていった。
仮にその人が休みでも、とにかく気分が上がってこないのだ。職場にいる限り、誰と話していようが、心に影をずっと感じていた。
こういう心労が寝ても覚めても積み重なり続けた結果、僕は心を一回完全に折ることになる。ただそれ以来、あの日ほどの憂鬱さは、どこにいっても感じてはいない。
―一方、そうやって心が折れた状態でも、例えば同級生と飯を食べている時間では、幾分明るく”自然に”振舞えた。
また、自然の中にいるときも、さして憂鬱さはこみあげてこなかった。あっちでは元気で、こっちでは憂鬱。僕は治ったのかどうなのか、自分でも不確かに感じていた。
・・・このときはこれをさして自覚していなかったが、分人という目線で考えると、やはりすごく腑に落ちる。
僕の負の感情は、特定の人と場所に紐づけされている。だからこそ、単にそこからクラッチを切ることで、それが発露するきっかけが無くなっただけなのだ。
どっちかが正しいとか、ネガティブな自分は間違っているとか、そういう次元の話ではない。どっちも、つまり僕なのだ。
どの自分が好きか嫌いか程度の格付けくらいならしてもいいと思うが、正解不正解のジャッジとなれば、それはもはや愚かな行為である。
どの自我が表に出るかなんてのは、ただの自然現象。そういう風に身も蓋も無い感覚を自分の腹に落とすことが、無駄な自己否定を止める第一歩だと僕は考えている。
負の感情を伴う分人を大人しくさせて何が悪い?
たまには遠出をしてリフレッシュをしよう、現実社会からクラッチを切ってのんびりしようという考え方に、20代の頃は少し違和感を覚えていた。
確かにそういう休暇・休養の取り方は大切なのは認めるが、無工夫で退屈な時間を設けると、ネガティブ・モンスターが心の中にむくむくと姿を現すためである。
これは若林正恭氏も「社会人大学人見知り学部卒業見込み」というエッセイで書いていた話だが、むしろ僕にとっては、正鵠を得ていたのはこっちだと、ずっと感じていた。
だから適度に忙しくして、仕事をしてみたこともある。ぎっちりと予定を詰め込んで休日を過ごしてみたこともある。だがいずれも、よくて75点程度の手応えしかなかった。
―しかしこういうジレンマについても、【分人】という立場から考えれば、別観点から建設的な解釈を与えることができることに、さっきふと気が付いた。
特定の対象からクラッチを切ることは、つまり不快感を伴う分人を封印することではなかろうか。言うなれば、自分が嫌いな自分を表面化させないための術なのだ。
自分の中に苛立ちや無力感が発生する際は、それが勝手に胸の内から湧いてきたのではなく、必ず他者の何かが原因となって、立ち上っていると僕は考えている。
現に僕は今、堂々と仕事をサボる人から物理的に100㎞以上の距離を空けているのだが、結果その苛立ちとは完全に無縁でいられている。
ネガティブな感情を誘発する環境や人物がいなくなれば、一時的とはいえ、問題はあっさりと解決する。正月休みで退屈な今、僕はそのことをしっかりと噛みしめている。
「間を置く」というのは、思った以上に含蓄が深い言葉なのではなかろうか。そう思うと、どこか斜に構えていた「休日」に対する考え方が、少し変わりそうである。
ちなみに今は、佐渡島庸平氏の思想の影響を受けて、退屈な時間とは自分の内面を観察する絶好の機会と考えるようになっている。
心を乱す存在から遠い場所へ行き、胸の内を観察しながら退屈を味わう。2023年は、僕が過ごしたい余暇の理想像に、できる限り近付きたいと考えている。
終わりに。
「唯一無二の正解」を求めることは、学校教育や資格試験だと悪くないことだと思う。というよりそうしなければ点が貰えないのだから、そうするよねという話だ。
しかし自分がずっと悩んできた、いわば現代社会における問題というのには、「唯一無二の正解など無い」ということこそが、唯一無二の正解なのだと考えている。
「どっちかが正しくてどっちかが間違ってる」という考え方を捨てて、正解という概念さえも手放していくと、少しずつ心が軽くなったからだ。
理想は理想として持っておくに越したことは無いが、本当にそれが絶対的なゴールである必要はあるのだろうか。今ではそこさえエポケーにしている。
皆様のジャッジを一時停止させるヒントになっていれば嬉しい。
では今日はこの辺で。