I have had a headache for about 3 days. How have you been? インテリぶってみた中元です。
さて。僕は今年30歳になり、周りには結婚どころか第一子が誕生する同級生も増えてきた。要するに、人生における区切りがつきやすい年代に入ったということだ。
何度も自問してきた結果強く思うのだが、僕は誰かのサブとして神輿を担ぐ人生に終始したくはないようだ。
つまり、【リーダー】や【上司】といった肩書に、飢えていると言ったら大げさだが、憧れよりかはもう少し現実的な印象を抱いているわけで。
理由は簡単だ。今夏僕は自分で限界まで仕事を抱え込み、その成果を確認したのだが、マジで大したことが無かったためだ。
むしろ、数人の人間が能力の80%でも発揮できれば、簡単に追い越される程度のものであった。それに少し絶望したのち、ふと空しくなったのがきっかけである。
だから僕は、僕も含めたチーム全員が、最大限パフォーマンスを発揮できるような環境を作る側に回りたいと、今年から本気で考えている。何なら、もはや切望に近い。
そこで色んなことを勉強し、自分なりに課題を見つめ、それに取り組んできたつもりだが・・・。
そうやって自分なりの努力を重ねるうちに、現実が段々と僕の前に姿を現してきたのにふと気が付いた。それはマジで身も蓋もないが、しかし抗いがたい”現実”である。
―今日はそのジレンマと、その正体をつかむヒントについて、記事を書いてみようと思う。
リーダーになるために。
僕は、最初からいわゆるテンプレなリーダーは無理だと考えた。自信満々な自分も、声がでかい自分も、そして「ついて来い」という自分も、吐き気を伴う違和感がある。
だからそれを補うような方向を考えるようになる。例えば、能力を証明するため、仕事に関する難関の資格を取った。
また、自分が関わる部署の数値も、必死に働いて高めた。そして何より、休みを取ることを二の次にして仕事に取り組んだ。僕にできることはそれだと考えたからだ。
・・・しかし、一か月過ぎ、二か月過ぎ、そして季節が2回変わっても、面白いほど何も起きなかった。
不安になり過ぎて、飲み会の席で酔うに任せて、自分の取り組んだことも思いも吐露したことさえある。
だがそれらの感想に共通して感じたことは、一種の【不足】という雰囲気であった。(もちろん被害妄想のようなものかもしれないが)
一体、その【不足】の正体は何なのだろうか。自然、次はそれを考える番となる。そしてそれを考えていく内、偶然ある本に僕は出会う。
実はまだ読み終えてないのだが、タイトルが挑戦的な【なぜ、「あんな男」ばかりがリーダーになるのか】である。僕はここに答えがあると、推薦文などから確信した。
そして読み進めるうちに、ある恐ろしい仮説にたどり着いたのだ。
それはある意味、僕の努力をすべて否定しうるかもしれないほど恐ろしい。そしてきっと、多くの人見知りやネガティブにとっても、厳しいものになると思う。
次項はそれについて書いてみよう。
リーダーは印象の産物か?
【不足】の正体の仮説。それは、僕がリーダーらしくない性格だからという一点である。
―ところで、皆様が「リーダー」と言われて想像する性格や言動はどんなものがあるだろうか。
会議で主導権を握る?独断専行?声が大きい?カリスマ性がある?全員の先頭に立って率いる?トップダウン式の命令を厳守させる?
なるほど、どれもある意味、納得だ。
さて。先の本で指摘されていたのは、そういった【印象】というだけでリーダーに選ばれるという、特に男性の昇進条件の緩さであった。
そこに仕事の能力が備わっていることは二の次ということさえあるとさえ書かれていた。つまり、リーダーに選ばれるには、そういう人に見えさえすればいい。
となればリーダーの性格に自然と増えていくのは、自己愛型であったり、何ならサイコパスであったりと、つまり人を率いるのに不向きなタイプだとも説かれていた。
そうなれば当然部下は疲弊し、結果組織も崩れていく。そんな未来までも、その本ではしっかりとした根拠を載せつつ、説明がなされていた。
・・・そんなことは信じたくないし、僕は単に次に順番が来るだけなのだとも思い込みたいのだが・・。
僕が自信なさげといわれることも、判断が遅いと何度も釘を刺されたことも、無関係だとは思えなくなってきた。
これはあまりにも辛いではないか。人見知りやネガティブは、自分を偽らない限り、チャンスすら巡ってこないということか。社会ってヤツは、冷酷だなぁ・・。
・・正直、僕は段々と、必要に応じて大人になっていると思う。会議の席で自分のアイデアに意見を投じられても、個人攻撃と批判の区別も、容易につくようになった。
何なら時にはこちらから意見を言えるようにもなった。誰よりも勉強している自信もあるし、誰よりも数字を見ている自負もある。
しかしそのすべてが、性格における難において無に帰すのであれば、頑張る意味って何なんだろうと、その次元から考えさせられてしまうわけで。
とはいえ自分を無理に偽って、リーダーごっこを四六時中やったところで、所詮真似事に過ぎない。長所を殺し、短所を少し伸ばしたところで、平均以下の何かである。
―こうなれば、僕の場合もう、正面突破しかない。幸い近く、自分のキャリアについて社員交えて研修・説明する場がある。僕はもう、そこで明言するつもりだ。
自分に有利なデータもあるにはあるが、果たしてそれは意味を成すのだろうか。不安は大きいが、もう腹の底に仕舞えないほど、違和感は膨らんでいる。
年内には一つの区切りをつけたいなと思う。毎年思うことなんですけどね。
終わりに。
ということで、人見知りネガティブにはある意味辛い発見を、今日は記事にしてみた。
いくらリーダー論を学んでも、それに就けなければ無用の長物。しかも就くための条件が、単にキャラとなれば、もういけない。
リーダーにのし上がるために最適な自己投資が演技の勉強なんて、笑えない冗談である。だが正直、正体というか、一般論がわかって少し楽になった面もある。
さっきの本、マジオススメである。読んでいく内に触れてはいけない何かに近づいている怖さもあるが、それ以上に面白いから。
ということで今日はこの辺で。