右わき腹が謎の痛みに襲われていましたが、ご飯を食べたら治った不思議体質中元です。
はい。別のブログでは散々書き殴っているのだが、僕は今、【独立】に向けて、こっそりと勉強やら準備やらに取り組んでいる。(ちょこちょこ公言してます)
そんな中で事業計画書などを見様見真似で考えていると、純度100%のキラキラした動機による人生の選択という風に思えてきて、少し自分が怖くなった。
もちろん前向き寄りな決断であることは間違いないのだが、それ全振りでないのもまた然りなのである。きちんとダークサイドも存在する。
それを書き残すのに、このブログという場はぴったりだ。(失礼!)ということで、僕がその決断に至るまでのダークサイドの方を、たっぷり言葉にしたいと思う。
能力<<職歴orコネor人柄
僕がこの決断に至るまでは、1~2年ほど掛かっている。最初はここまで具体的ではなかったが、芽が出てむくむく育っていくように、気づけばついに開花した感じだ。
では、そもそもの発芽したタイミングとはいつか?それは、いつの間にか、自分が名ばかり責任者として扱われていることに気が付いたときだ。
面倒事の担当にはされるが、手柄になる部分はさらに上の方が持っていく。もちろん文字にするほど派手ではないが、大なり小なり、そういうことを食らってきた。
裁量も限定的で、自分が我を出してマネジメントみたいなことに手を出せば、カミナリを落とされたこともしばしばである。何度心を折られかけたことか、わからない。
それが嫌で、仕事における資本を全振りして結果を作りにかかったのが去年のことだ。何度越権行為だと咎められても、無視。クレームが来ても、めげずに耐え抜いた。
その結果、社内の誰もが認めるくらいの数値を作ったことは、前も確か記事にした。そして、それを褒められつつも、現状が何も変わらなかったことも同様だ。
僕が生んだ数値は、権力とかコネとか職歴と言った、能力にあまり影響のない部分に完全敗北を喫したらしい。
つまり、下剋上は起きない。少なくとも、今僕がいる組織においては。これこそが、僕の得た悟りだ。
そしてこの状況のまま、今年度がしれっと始まり、いつの間にかそれが日常となっていることに、僕ははっきりと恐怖した。
「下剋上は起きない。でも、このままの半端な状態であろうと、俺はこの会社にしがみ付きたいのか?」
―そんな自問自答を繰り返した果て、【独立】という選択肢が天啓の如く降りてきたのだ。
僕はさらに大きな利益を会社にもたらしたいし、自分がやりたい仕事を追求したい。そのためにはもっと裁量が欲しいのだが、それは、まるで望めそうにない。
この条件を考えれば、取るべき選択は【独立】しかないだろう。権力欲と言ったチンケな理由ではなく、言い切ってしまえば、我慢の限界ゆえの決断ということである。
もし能力でのし上ろうと皆様がお考えなら、悪いことは言わない。同時に、社内の権力者にすり寄って、仲良くなっておく方が100万倍確実である。
もっとも、あなたが外資系企業に勤務しているとか、ベンチャー企業の社員とかなら、話は別なんですけどね。
そもそも大抵の会社は、下剋上を起こさないシステムになっている。
少し話が反れるのだが、日本史を見てみても、下剋上によって成り上がった人達は、それを引き起こさないようにするシステム設計が上手である。
有名な例は江戸幕府の政治であり、身分制度を作ることで、権力への不満を被差別層にぶつけるような構造にしたり、金稼ぎを悪という価値観を作ったりという風に。
さて。それを参考にしたのか、それとも無意識なのか、はたまたホモサピエンスの本能なのか知らないが、大抵の会社もまた、下剋上が起きにくい仕組みである。
例えば、責任者という肩書があるが、これが時折、「責任を振る者」になっている人がいる。仕事を振りまくり、利益を自分事にして、トラブルをその人の担当に投げる。
そうやって、自分の手柄を最大限にし、失敗を最小限にする。そういう権限が与えられているのが管理者だと捉えている人は、決して少なくない。
そしてこういう風に評価を恣意的にコントロールすることで、下剋上は防ぐことが可能なのだ。それもそれで、手腕だと思うけれど。
外資系企業などが採用している360°評価的なものを採用する企業が少ないのにも、似た側面があるように思う。
こんな具合に、理想とされる組織像と対極に当たる姿こそが、ある意味の現実なのだと覚悟を決めれば、ただひたすらに耐えるとか我慢する以外の道も見えてくる。
「それでも耐える!我慢する!しがみつく!」ってのを選べる人も中にはいるが、それはある意味幸運なことだ。皮肉でもなく、羨ましく思う。
僕は無理だった。だからリスクに晒されなければならない。毎日胃に穴が空きそうだが、そうするしかないと覚悟しているので、一応今も、前だけは向けている。
なぜ下剋上という発想になるのか?
実をいうと僕も、かつては誰かに追い越されることが怖くて仕方なく、優秀な人を集めることに抵抗があった時期がある。
しかし今は逆だ。優秀な人を気持ちよく働かせる環境を創らなければ、"組織"が死ぬという強迫観念がある。僕なんか踏み台にしてこき使ってほしいほどだ。
(※その代わり、マジで組織にとって悪影響を及ぼす存在がそんなことをし続けたら、どんな手を使ってでも追い出します^^)
―こういう考え方なので、例えば僕の下に就いていた人が、よその会社で出世したとして、それを下剋上だなんて1mmも思わない。組織内でも、そう思わないだろう。
では、なぜ部下の昇進を下剋上だと解釈し、徹底してそれを起こさないシステムや人脈作りに終始する人がいるのだろう?
本来、権限や肩書などは、ただの役割に過ぎない。それによって上下をつけるためのモノではないはずだ。だがそれを、そう解釈する人は、一体どういう思考なのか?
自分とまるで違うプロセスなので理解するのが難しいのだが、色々な実用書や、生生しい実録とか、人のインタビューとかを読んでいると、少しずつ分かってきた。
そのパターンは2つある。まずは、極端に自己愛が強いか、サイコパス性をもって生まれた人だ。天性の何かと言ってもいい。
こういうタイプの人は、自分は人より上で当然だし、だからこそ他者を使う側であるのが自明という思考を、ナチュラルに行うのだという。
これはなかなかの厄介さであるのだが、時折極めて個人として優秀なこともあるので、付き合い方や使い方を間違えなければ、武器になる人材とのことだ。
もう1つは、手厳しい言い方になるが、追い落とされたら食いっぱぐれると自覚している人だ。つまり、コンプレックスの裏返し、だと。
能力としては劣っている、新たに努力を継続する自信もない・・・・。そういう人の最後の拠り所こそが、自分が勝ち取った【肩書】ということだ。
本来その肩書自身は、冷静に考えれば無価値に等しいのだが、それに価値があると思い込み、頑なに守ることで、自己肯定とポジションに固執する。
尚、このタイプは悲しいかな、ふとした言動ですぐに読み取れる。自慢話とマウンティングが会話の9割を占めたら、これで確定だ。
こういう人の下に就くと、楽しいことは望むべくもない。提案は反抗と解釈され、次々跳ね返されて終わりとなる。だから、多分優秀な人は即離脱していく。
結果、下手すればその部署ごと閑職になるかもしれない。そういう悲惨な結論を迎えかねないのが、この第2のパターンである。
能力でのし上った人は前者、コネでのし上った人は後者である可能性が高まっていく。どういう経緯で昇進したのかは、可能な限り調べた方が良いかも。
ちなみに、部下や同僚に支持されて昇格した人はほぼ例外なく本物なので、願わくばこういう人が肩書を得んことを、である。
終わりに。
こういう目線は、部下としてある種の憂き目に遭っている限りは、本当に忘れてなるものかと、強く強く思わされる。毎日が臥薪嘗胆なのだ。
だが、そういう目に遭ってきた人でも、権力を持つと大体その目線が抜けるのだろう。だから僕も、意志に頼るのではなく、システムを設計する必要があるはずだ。
それが一体何なのかは、独立を果たす前に見つけて、新しい組織に組み込んでおく。絶対に、そうする。僕が胸を聳やかす裏で、不幸な人がいるなんて、悲しいもの。
そんなエッセイでした。
ってことで今日はこの辺で。