有給の日は体調が崩れる可能性が高まる中元です。くそっ。
隠していたわけでもなんでもないのだが、ここ1年以上、実はあるメンタルの変化に悩んでいる。(別に病的に気にしていたわけでもないのだが)
それは、突発的なイライラである。具体的には、朝起きてちょっと経ったときとか、仕事と仕事の空き時間に、猛烈にイライラする時間が常にある、という感じだ。
その対象は大体、自分の境遇、仕事をしない周りの人、過去の嫌な記憶といった考えてもどうしようもないものであり、それらに対して、猛烈にカリカリしてしまうのだ。
暇な時間があると、本当に急に、「掃除くらいできてくれよ!!」「なぜああもある意味、期待を裏切らない仕事しない宣言ができるんだろう」と沸き立つ感じである。
・・・元々ミスするとゲームのコントローラーを投げるタイプの短気だった僕だが、20代前半はそこまで気分が高ぶったことがなかっただけに、ただただ驚いている。
怒りが湧いている最中は冷静になることさえ極めて難しいのだが、とはいえ数分放っておけば、しれっと治まることが大半で、本当に掴みどころが無いままであった。
直に治まるのだから気にせず放置すればいいということも考えたが、毎日ちょこちょこアトランダムに、周囲に対し敵意を向けるとか、単に面倒な輩である。
だから本当に、どう処せばいいかと難儀した。科学的なアプローチも試したが、例えば御岳百草丸もロディオラも、全然効いたようには思わない。
そうやって悶々とする日々を1年以上送ってきて、そして今日もまた起きてしばらく経ってから、またしても猛烈なイライラに苛まれていたのだが・・。
そのとき、本当に突然、電球が飛び出す音が周りに漏れんばかりの勢いで、頭の中に一つの大きな仮説を閃いた。僕が抱える、御し難いイライラの正体。その仮説だ。
それについて考えを一層掘り進めていくと、あれだけつかめなかったその正体が、どんどん、どんどんと、砂の中から掘り出されるようにはっきりと形を表してきた。
―結果、その正体は、どうやら歓迎して良い部分と、己の弱さ・浅さとして反省した方が良い部分の2つで成り立っていそうだということが分かった。
今日はそういう、完全に自分向けの随筆を書いてみようと思う。
- 突発的な【イライラ】とはどのような症状なのか?
- 突発的な【イライラ】という感情は、僕に何を伝えたいのか。
- 僕は自分を守りながら自分を肯定したいだけ。もっとも安直な方法で。
- 怒りとはエネルギーの噴出であり、意識でそれの割り振りはハックできる。
- 終わりに:これから僕は、己の怒りをいっそ歓迎できる器をつくりたい。
突発的な【イライラ】とはどのような症状なのか?
突発的にイライラするとだけ書くと、何か躁鬱的なものを感じるが、もしかしたらそうなのかもしれないし、実はちょっと違うのかもしれない。
だからまず、なるべく具体的に、どういう感情が発生することを指すのか、そこから噛み砕いていこうと思う。
発生のタイミングはほぼ決まり切っており、例えば朝起きて30分~1時間くらいした後とか、シャワー中とか、仕事が一区切りついた後とか、退勤中の車内とかが多い。
要するに、脳が活性化している状態で、かつ暇な時間、あるいは特に集中力を使わない単純作業に従事しているとき、というのが共通点だ。堅苦しい言い方だけど。
その最中、急に、怒りの感情が過去のエピソードや現状の不満、あるいは想像上の他者からの皮肉などを伴って、心の底から立ち上ってくるような感じだ。
クレーム処理に駆り出された記憶。過去の自分がやらかした発言。消せない記憶。上司に吐かれた皮肉。自分の半分程度の仕事量で倍の給料をもらっている人、等々。
ゲームで雑魚キャラにやられたときにカッとなるアレ。ドライブ中に下手くそな運転に邪魔された際に感じるアレ。そういう感情が、ふとした折に突沸するのだ。
ただしその持続時間はかなり短くて、最長でも10分程度である。最短だと、シャワーを浴びているときにイライラし始めて、頭を拭いているときに忘れることも多い。
だからこそ、つぶさに観察して対策を講じようにも、すぐに姿を消してしまうことから、それが進まなかったのだ。なんか病気にしか、聞こえない。
もちろん、こういう移ろいゆくことが前提である感情に固執し、それを留めおこうとするのはそもそも不自然な計らいであり、例えば仏教でも非推奨の考え方ではある。
ただ僕の場合は、一旦正体を掴まないと、持ち前の好奇心が邪魔をして、捨てることが困難なのだ。常にそこへ興味が向いてしまう、というか。
この辺の性格は重々承知している。長所と表裏一体だからこそ、むやみやたらに捨てたり否定したりすることはできない。だからこそ、そこから始めた。
そして最終的に、冒頭にも書いた【仮説】に行きつくことになったのだ。ということで次項から、そこに至るまでのプロセスを、つらつらと述べていこうと思う。
突発的な【イライラ】という感情は、僕に何を伝えたいのか。
いつぞやの記事でも書いたが、自分の感情と向き合うときは、自分の中でルーティンがある。まず、徹底して言葉に起こすこと。これに尽きる。つまり言語化だ。
ということでいつものように、プルチックの感情の輪を眺めてみる。今僕が抱えている感情は、純粋な怒りなのか、それとも何かと混ざった別の感情なのか。
―すると、少し気になることが判明した。【苛立ち】そのものは怒りが弱まった感情であるのだが、そこに【期待】や【関心】が混ざると、【攻撃】になるのだという。
攻撃とは、対象が他者か自分かはわからないが、否定的な印象を伴ってそれにベクトルを向けた状態である。
となれば、僕の感情は純粋な怒りや苛立ちではなく、攻撃であろう。つまりどこかに【期待】や【関心】が混ざっている、ということか。
では、僕は何に期待し、関心を寄せているのだろうか。その問いに対し、心当たりは、実はある。なんなら、ちょっとした仮説をこの時点で作ることができる。
その仮説とは、「理想の自分と現実の自分の落差に、自分は苛立っているのでは?」というものだ。
ナルシストに聞こえるが、僕は僕に対し、まだ伸びしろはたくさんあると信じている。これはある種の期待と言っていいだろう。
期待という言葉は嫌いだし避けてきたが、どうやら心のどっかで僕は、自分に期待をしているようだ。ただしそれの是非は今、どうでもいい。
問題は、それと同時に、現実の僕がその期待からかなり遠いことを自覚していることではなかろうか。だから日々、僕は理想像と今の自分の対比に、攻撃性を抱くのだ。
―では得てして、その対象が「他者」なのはどうしてだろうか。己自身に対して不満があるなら、常日頃から、自分に対し攻撃するような思考をすれば良さそうなのに。
・・ここだけ切り取れば病的なメンタルになるのだが、例えば音を上げそうな自分を自分で叱咤激励すれば美談になるように、自身への攻撃性は、使い方次第なのだ。
この部分も、少し考えると、もっともらしい答えにすぐ行き着いた。だが行き着いた瞬間、頭を抱えて呻きたくなった。己の小ささに、絶望さえしてしまった。
ということでここから、猛烈に恥ずかしくて言葉にするのも抵抗があるのだが・・。
もう逃げられないということで、僕が思う僕の突発的なイライラの正体を、赤裸々に書いてみる。
僕は自分を守りながら自分を肯定したいだけ。もっとも安直な方法で。
その答えとは、僕は僕を守りたいのだろう、というものである。
というのも、ここ最近は大きな目標を掲げているわけでもなく、立場を上げるための努力に驀進しているわけでもなく、ただただ惰性で生きているようなものだからだ。
つまり、自分自身心のどこかで、何かを諦めた状態になっているということである。周りの友人は結婚したり子供が誕生したり昇進したり、煌びやかな面ばかり話に聞く。
少しInstagramを開けば、成功した人たちの姿が飛び込んでくる。一方僕はどうかと言うと、それに比べればどこか燻った存在と言われても仕方ない何かになっている。
薄々自覚はしていた。でも意識に上げないようにしていた。ただそれを、潜在意識が拾い、ずっと醸成していたのだとすれば、どうか。
僕は満たされていない。だから守りたい。イジメられる側になりたくなければ、イジめる側に回ればいいというクソ論理と、つまり同じだ。
安全地帯から他者(というより過去の惨めな自分)を攻撃(否定)することで、否定できている今の方がマシという感覚を得たいのではなかろうか、と。浅い。浅すぎる。
思考回路としては、自分に対する不満をもっともらしい言葉でインフルエンサーにぶつけて憂さを晴らすアンチと同じである。そっち側に、僕は堕ちたのか?
人は暇な時間になると、ネガティブなことを勝手に考えるという。僕だって例外ではない。しかしいつからか、それを怒りにすり替えることを覚えたらしい。
例えば、仕事が片付いていないことに気付いたのなら、それを受け止めて、どうすれば片付くかのプランを具体的に頭に浮かべるのが健全だろう。
だが今の僕は、「あいつが仕事をしないせいだ!」と自動的に帰結させてしまうクセが染みついている。一体何がどうしてこうなったかは分からないが、そうなっている。
僕の認知は歪んでいる。結論として、そこに行きつく。
ハーブが効かなかった以上、コルチゾールと言ったストレスホルモンが原因ではない。だから、元来の認知が原因。これはかなり、身に染みる・・・・・・。
―だが、どんな感情にもいい面もあれば、悪い面もある。僕は怒りやイライラの悪い面ばかり見つめて、落ち込んでいるに過ぎない。では、どう活用すればいいのだろうか。
あるいは、どうすればこの辺の認知の歪みを正すことができるのだろうか。さらに一歩問いが進んだ。光が見えてきたような気がする。
ここまでくれば、一旦色んな考え方を参考にするフェーズとなる。他の人は、怒りに対しどう向き合い、それをどう生かしてきたのか。
今度はそれについて、ざざっとまとめていってみよう。
怒りとはエネルギーの噴出であり、意識でそれの割り振りはハックできる。
これまた自分にとってはルーティンに等しいのだが、自分がネガティブに感じていることを、仏教や心理学者、哲学者はどう言葉にしてきたかも、よく調べている。
まず仏教で、「怒りに囚われている状態」を指す言葉は、【瞋(しん)】と呼ぶという。ただしそれが内包する意味合いは、イメージより遥かに広く、多い。
この瞋に、欲深さを表わす【貧(とん)】と無知を表わす【痴(ち)】を足した3つが、仏教における克服すべく煩悩、三毒なのだという。これの勉強はまた今度にしよう。
今は【瞋】の正体を見つめ、制御する方が要だ。すると仏教においては、まず【瞋】を自覚すること、そしてそれを観察し、意識を外すことがその特効薬であった。
確かに、気付くことができれば、それだけでストレスは激減するだろう。それは実体験としてもわかる。そしてそれを習慣化するには、修練が必要なのも納得だ。
時たま思い出したように、昔どっかで記事にした「自動思考キャッチトレーニング」を継続しているが、あれをもっとどこでもできるようにした方がいいかと思えてきた。
―ただ、観察し、意識を外すのも否定しないが、どうにも勿体ない気も感じてしまう。これ自体がある種【貧】の状態にも思えるが、もう少し言葉を探してみよう。
すると、意識を外してからの考え方について、【アンガー・マネジメント】という、体系化の途中のような技術を知ることができた。
そこでわかったことが、ヒントになりそうである。
人は怒りというストレスを感じると、アドレナリンという興奮作用のあるホルモンが分泌される。つまり合法のドーピングが施された状態になるのだ。
この好機を逃さない手はない。いわば僕は、時折頭の中にアドレナリンが突発的に噴出される謎体質にあるのと同じだからだ。制御できれば、活用もできそうだと思えた。
NARUTOに出てくる重吾とか、鉄拳シリーズの風間仁みたいに、制御できない衝動を抱えていると考えれば、厨二くさいがイメージはし易い。
むやみやたらに押さえつけるのではなく、つまりエネルギーなのだから、沸騰した瞬間いどこか冷静さを取り戻し、ぶつける先を切り替えれば良いということ。
つまり、いつでも取り組むべき【対象】をどこかに仕込んでおけばいいという話である。
例えば、スマホをカスタムし、いつでもどこでも仕事ができる環境を整えておくのも悪くないだろう。
「イライラする!」⇒「あ、俺は今【瞋】に囚われている・・」⇒「よし、このエネルギーを仕事にぶつけよう」という転化ができれば無敵だ。是非とも、これを目指したい。
今までただ噴出するに任せていたエネルギー。勿体ない。尚のこと、無駄にしてはならない。ただ、それだと面白くないから、前向きに考えたい。
言い換えれば、31歳になった今が、ある意味人生で一番活力に溢れているということではないか。
人生の旬が今になって来ていると考えれば、心が躍る解釈も可能になる。ガラではないが、嫌いじゃない考え方だなと、ふと思った。
終わりに:これから僕は、己の怒りをいっそ歓迎できる器をつくりたい。
これまで1年以上、僕は自分の制御不能なイライラに頭を抱えてきた。そして毎度の如く、制御しきれなかった自分を嫌悪した。だからまた、イライラする、と。
【瞋】に一瞬グンと引きずり込まれ、そこからじわじわと浮上するまでイライラしっぱなしというイメージ。自分の器の小ささが本当に嫌いだった。
―だがこうしてじっくりと腰を据えて、全て自分の弱さに因るものだと受け止めて、その上で色々な言葉や思想に触れていくと、ようやく冷静になることができた。
怒りとは、物心のついていない子どもでも持っている、つまり純粋なエネルギーである。御し方さえ会得できれば、あまりにも強い自分自身の長所となる部分だといえる。
つくづく思うが、僕という人間にとっては、【観察】という行為が本当に合っているようだ。腰を据えれば、都度発見があるようなものだからである。
皆様も言葉にし切れていない自分の胸の内のどこかを、徹底して書き起こしてみてはどうだろうか。もしかしたら、大事なヒントや学びを得られるかもしれないから。
ということで今日はこの辺で。