手前味噌だが、別ブログにこないだアップした記事は、我ながらヒントに富んだものになっていると思う。
jukukoshinohibi.hatenadiary.com
これはざっくり言うと、ユング心理学の用語【シャドウ】について調べてまとめたものなのだが、書き終わってしばらく経った今も、次々と学びと気づきを得続けている。
特に面白いと思っているのは、「自分が否定した理想の自分の像を体現する他人に、僕らは違和感や嫌悪感を覚える」という指摘だ。そしてそれは、きっとその通りだ。
ということで今日は、自分自身を被験者として、更に手触り感をもって【シャドウ】を理解してやろうという記事である。
一体何が出てくるのか、冒頭部分を書いている今でさえ、まるでピンと来ていない。だがそれは、楽しみでもあるわけで。
ということで以下、本題である。
自分が諦めた自分は、潜在意識に生きている。
そもそも【シャドウ】とは何か。解釈が間違っているかもしれないと不安になったので調べ直してみたが、僕が考えていたイメージと、大枠では間違っていない感じだった。
難しく言えば、それは自分が抑圧している、封印している自分の像という感じだ。これだけ書くと極めて難しい話に聞こえるが、実はすごく手触り感のある言葉である。
例えば僕は、病院の待合室では静かにするべきだと思っている。そしてこのイメージの裏には、待合室で音を立てる自分の否定がセットになっている。
自分が「こうあるべき」というモデルには、表裏で「こうあってはならない」というモデルがくっついている。そして後者が、いわゆる【シャドウ】だ。
そして少しだけ厄介なのが、「こうあってはならない」というモデルの中には、「自分はそうは成れない」という風に、積極的に諦めた自分像も含まれる。
一時期僕は、関西のお笑い芸人みたいにパワー全開で笑いを取る自分に憧れていたことがあるのだが、それはもう完全に諦めた。これもまた、【シャドウ】となる。
ということでまとめると、【シャドウ】とは自分が自分に持つセルフイメージの内、以下の要素を持つものの集合体ではないかと、僕は理解している。
こうあってはならないという自分+こうはなれないと諦めた自分=シャドウ
ちなみに、「こうあってはならない自分」というのは、「自分が自分に実は認めている弱点や嫌いな所」と言い換えてもいい。
僕で言えば、「人前で電話ができないこと」というのがそれに当たると思う。
さて。この【シャドウ】の厄介な点は、それが表面化する場面にある。そしてそれは、非常に身近なところにあり、かつ気が付くのが意外と難しいくらい無意識的だ。
一例をあげる。皆さんは最近、知人であるかそうじゃないかを問わず、誰かにイライラしたことはないだろうか?あるいは、イヤな気持ちを抱いたことはないだろうか?
自分事で言えば、僕はやはり無駄な物音を立てながら暮らす人が凄いイヤであり、だから隣人のおっさんがあまり好きではない。
―ではこのとき、僕は一体そのオッサンに対し、どういう意識を向けているのか。「無駄な物音を立てて、うるさいな」という感想だけなのだろうか。
ここも深掘りすると見えてくるのだが、そもそも感情が揺さぶれるのは、何かしらが自分の琴線に触れているがためである。
どうでもいいことには、人は反応さえしないものだ。例えば僕は、電車内で化粧をする人について、実は全く気にならない。だから感想の一つも抱かない。
その何かしらとは何なのか。それこそがいわゆる【シャドウ】を相手が体現しているという認識ではないか。
自分が許せない「無駄に物音を立てること」を実際に行う人間がいる。「俺はその信念に従ってなるべく静かに暮らしているのに、なんだコイツは」と不満が高まる。
自分が胸の内に秘めている「許せない」ポイントを他者に見出し、不快感や嫌悪感を抱くこと。これを、「【シャドウ】を投影する」と表現するそうだ。
「人の振り見て我が振り直せ」という言葉に含蓄があるのは、これが理由だ。他人に対してネガティブな反応をしたとき、その一面が自分にあるからこそそう思うのだ、と。
だからそれをしっかりと認識することで、自分の中にある人間的な弱点を解決していきなさいよと、そういう意味を纏った言葉に、今なら聞こえてくるわけで。
さて。
この時点でも僕にとっては発見が多い考え方なのだが、同時に別の、ある仮説が立つことに気が付いた。
それは、ネガティブな反応を他人に抱いた経験をかき集めれば、僕が認識していない僕の無意識が立ち上ってくるのではないか、というものだ。
影を見ることで、実際の物体の形を推測する。いわばシルエットクイズのような思考実験を、自分自身のメタに対して行う感じだ。
ということで実際にそれをやってみたレポートを、以下に書いてみる。僕が認識していない僕とは、一体どんなヤツなのか。31年目の真実にたどり着けるのか。
早速やってみよう。
【シャドウ】から紐解く自分。
そもそも論だが、僕が不快感や嫌悪感、そこまで言わずとも引っ掛かりを覚える事柄について、どうすればそれを意識できるだろうか。
すぐに気が付いたが、他人から「そんなどうでもいいこと、なんで気になるの?」的なことを言われた記憶を並べるのが一助になりそうだ。
そして最初は、敢えてすごく具体的に考えて、あとからそれらをぼんやりさせてみようと思う。
そうすると、結構色々見つかった。だいぶ偏屈だが、僕の心に琴線に触れる人は、こんな特徴を持っている。
① バイトや塾を掛け持ちする。
② 相手の発言に否定から入る。
③ 立場的弱者に対する当たりが強い。
④ ギフテッドと評されるほど勉強が得意。
⑤ 自分の理想を押し付ける。
⑥ とりあえず会議をしようとする。
⑦ 決めつけで話をする。
⑧ ウィンカーを出さずに車線変更する。
⑨ イジりがしつこい。
ということで引き続き、この項目をできるだけ抽象的にしていく。その中で「同じこと言ってるな」と思ったものは、なるだけまとめてみた。
① 複数のコミュニティに所属する。
②⑤⑥⑦⑧ 自分の価値観と論理で他者を支配する(世界の中心が自分)。
③⑨ マウントを取る形で、他者へ攻撃する。
④ 僕が強みと考えている点の上位互換タイプ。
そして最後に、この中から、「自分が諦めた自分」や、「自分がなりたくない自分」たり得るポイントが無いか、丁寧に解していく。
すると、こんな成分を抽出することができた。結構面白いことが分かって、僕自身は結構いい意味で驚いている。
自分が諦めた自分→勉強で一位を取ること、複数の組織に属しながら活躍すること
自分がなりたくない自分→自己中心的な視点で社会と関わろうとする人間
諦めた自分については、冷静になると、ちょっと悲観的すぎるなと客観視できる。勉強で一位を取れなくても勉強は好きだからそれでいいじゃん、と。
また、自分だって今の会社以外に、複数のコミュニティに属しながら生きてるじゃんか、と。そしてそれは、他のコミュニティの否定にはならないじゃんか、と。
だが後者は、書きながらすごく背筋が凍るような思いがした。この「自己中心的な視点で社会と関わろうとする人間」は、僕が嫌いな頃の僕そのものだから、である。
劣等コンプレックスを拗らせていた高校生の頃、そしてADHD的な行動を繰り返して他人を困らせてきた子供の頃、それらの過去の自分が、僕は大嫌いである。
僕は子供が要らないのだが、その理由は、自分が否定した自分を再度イチから見せつけられるのに耐えられない気がするから、という仮説を、今は立てている。
それくらい僕は、この時期の自分を肯定することができない。僕が【シャドウ】として認識しているのは、まさに否定した自分そのものだったのだ。
・・問いはここからいくらでも浮かぶ。例えば、「なぜ僕は過去の自分を肯定できないのか?」というのもそうだろう。
しかしその問いはあまりにも取っ掛かりが無さ過ぎて、全く自問自答を始められない。だからそれは、この記事ではお預けにしよう。
さて。こんな風に自分の【シャドウ】を観察することで、自分という人間の一面をまた一つくっきりと理解することができ、今はすごく充実している。
”わかる”ことに意味はないと受験勉強では言われるが、心理面では、わかるだけでも救われるのだ。
そういうことが伝わっていたら、割と嬉しく思う。では今日はこの辺で。