最近どうにも頭痛の頻度が増えていることに、老いではなく病魔を感じてならない中元です。
はい。今日はのテーマは、30歳になった今また少し体感が変わってきた、ネガティブ思考との付き合い方である。
思えば高校生の時にはっきりと自覚した強すぎるネガティブ思考と、僕はずっと戦うことを選択してきた。
自分の中で【負】と思うことを恥や劣等に結び付けて、鞭打つような努力と自己否定に自分を駆り立てる。そして同時に、僕はそれを"正しい"と考えるようにもしてきた。
結果、その果てにある種の資格を得たり、大学に受かったり、そういった良いことももちろんあった。だがそれらを不満で塗り替えるような日々に、疲れてもいた。
ゴールを達成した瞬間から、自分より良い成績でゴールテープを切った存在が気になる。自分が成し遂げたことがえらく小さいものに思える。だからまた頑張る。
そうした日々の中で一度心をぶっ壊したことはすでに記事にした。だがそこから立ち直っても、結局根っこの根っこでは、僕はネガティブと戦い続けていたらしい。
競争はクソ。他者比較はムダ。自己否定はウンコ。10代の自分を苦しめた思考を1つずつ捨てながらも、最後まで【真正面からネガティブと向き合う】ことは捨てなかった。
そして30歳になって、2か月一寸が過ぎた今。僕ははっきりと、もうネガティブと真正面から取り組むことを止めようと、強く覚悟したところである。
自分にとって、反発することで力を得る源だったネガティブを、【受け入れる】ように考えをもっていこうと決めたのだ。
一体その経緯は何なのか?そのために自分がしていることは何なのか?
この記事では、それらをなるべく言葉にしてみようと思う。
- 自己否定の末路は、どう足掻いても後悔らしい。
- ネガティブから、多分何かしらの答えは得られない。
- ネガティブと距離を置くために心がけていること。
- 終わりに。:僕はポジティブにはなれない。でも、ネガティブに浸かるのも、いい加減疲れた。
自己否定の末路は、どう足掻いても後悔らしい。
死の間際において、人は何に後悔するのかをまとめた記事を読んだ。
いささか抽象的で禅問答風なのだが、「自分に正直に向き合わなかったこと」が最たるものなのだという。
"したい""したくない"を環境や世間体や他者の言葉などによって捻じ曲げて押し通す。それが重なっていくと、最後の最後に強い後悔を覚えるそうなのだ。
これは何も、したいことをすべて実現できないことへの後悔ではなく、もっと全員に、それこそどんな思考のクセがあろうと当てはまることじゃないかな、と。
自分に正直にならないとは、本心を無視することである。資格を取ろうと、大学受験に受かろうと、僕は自分をどこか否定する気持ちがあった。
もっと上の級がある。もっと上の大学がある。安心したら堕落する。そういう強迫観念があったためだ。だが、これはつまり、僕は僕の努力を無視している。
報われた部分を否定されれば、ぶっちゃけ何もする気がなくなってしまう。他の人に言われたらぶん殴るレベルに腹立たしいが、僕は僕にずっとそうしてきた。
自己否定をすると、満足が無いので、結果成長に繋がる。繋がりはするだろうが、果たしてそれは幸せなのか?というか、自己否定なくして成長できないわけ、ないじゃん。
冷静に考えれば至極当然な話なのだが、なんと30年も気付かないままであった。思い込みや視野狭窄は、ここまで怖いのか。
僕が僕に優しくできなければ、それは自分を見つめないことと同義。そうやって目を反らし続ければ、多分僕は死の床で後悔しながら滅するんじゃなかろうか。
それはマジで嫌だ。だからこそ、ネガティブに任せて自分を否定するのはもうやめようと誓ったのが、一番大きい動機といえば動機である。
ネガティブから、多分何かしらの答えは得られない。
そうやってネガティブに反発することで生きてきた僕だが、その抵抗を止めようと決めてすぐ、あることに気づいた。
それは、ネガティブ思考が行きついた先が何かしらの真理だったことなど、一度もないということである。
延々と考えを深め、悟りを開くことと、どこまでも自分を責めて、落ち込み続けることは、月とすっぽんなのである。
そう思って少し記憶をさかのぼってみたが、僕の人生に良い影響をもたらした決断はすべて、ネガティブのどん底で閃いたものではないとわかった。
むしろ、落ち込み倒している状態で取った行動や決断がいい方に作用したことは無く、ほぼすべてダメな方に機能していたので面白い。
自分が今クヨクヨしているのは、考えが前進しているのか、それとも奈落に向かっているだけなのか、時には顧みた方が正解かもしれない。
ネガティブと距離を置くために心がけていること。
では、ネガティブを受け入れると言っても、いったいどうすればいいのか。単に「あっちいけ!」と念じるだけで消えないことは、30年かけて証明してきた。
今のところ一番しっくり来ているのは、「あー、とりあえず俺は今、怒られたことがショックで激萎えしてるなぁ」という風に、まず分析することである。
"ネガティブ"という一言に逃げず、小説の描写みたいに自分の心境をなるべく具体的にしていく。脈拍は?表情は?そういったところも意識すると、やりやすい。
そのうえで、最後に自分にこう問うのだ。
「で、今せんといけんことは何だっけ?」
―そう。受け入れるとは、実をいうと自分をむやみにネガティブの感情に置かないということである。
こういった負の気分に徹底して向き合い、抵抗するから、段々と泥沼になっていくのだ。ちなみにこの考え方のヒントは、以下の記事から得た。
正直言って、ネガティブは消えない。ずっと心の底で静かに燃えており、時折パチンと弾けて火花をこちらに飛ばしてくる。そんなものをイメージしている。
それをたとえ必死で踏みつけても絶対に消えることはないし、何ならどんどんと勢いは増す。だからこそ、ただ見つめるのだ。
今のところ、こういった前向きなあきらめは、僕にとって非常に収まりがいい。もっとも言葉にしきれないくらい抽象的でつかみどころがない思考だが、これもまた事実。
ネガティブは消えない。でも、無いように振舞うことはできる。というかきっと、友達のように付き合うことだって可能なはずだ。
抵抗を止めると、新しい考え方がすとんと入ってきた。自分に正直になるという目標に向けた、第一歩なのかもしれない。
終わりに。:僕はポジティブにはなれない。でも、ネガティブに浸かるのも、いい加減疲れた。
10代のころ、ポジティブじゃなければならないと思っていた。しかしそうなり切れない自分が、何なら嫌いであった。
20代になっても、ネガティブを受け入れることはできなかった。いっそ徹底的に反抗し、自分の糧にしてやると、鼻息荒く考えていたくらいだ。
だが30歳になった今、このどちらも違うという答えにたどり着いている。もちろんまだまだ仮説なのだが。
否定がダメなら肯定だ。ただそれだけの話。気が滅入る?不安で不安で仕方ない?ふむ、それで?そんなのは自然だ。当然だ。そのうえで前に進めるかどうか、である。
もういい加減疲れた。僕はもう自分に甘くなろうと思う。どうせ甘くなり切れはしないのだから、ゼロヒャクな考え方くらいがちょうどいいのだ。
開き直って考えることができればどれだけ楽か。でも、近いところまでは多分いける。それで十分ということにしよう。
では今日はこの辺で。