高校2年の頃、読書感想文を書くために、課題図書を選ぶという一幕があった。
僕は特に深く考えもせず、たまたまタイトルを知っているという理由で、【人間失格】を選び、結果として、読み切ることなく真ん中くらいで投げ出してしまった。
それから大体10年以上が過ぎて、ふと何の気なしに「途中で投げたままとか、ちょっと寂しいよね」と思い、改めて買ってからというもの、今回で3~4回目の再読となる。
実はその都度思うことなのだが、読み返すたびに、違うところが自分に刺さるのだ。例えば前に読んだときに一番突き刺さったのは、このフレーズだ。
自分には、禍《わざわ》いのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が脊負《せお》ったら、その一個だけでも充分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと、思った事さえありました。
つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。
・・・厨二病のご多分に漏れず、僕は僕の抱えている闇が、他の人の闇とはまた異質で、単純に強いのだと信じ込んでいた。20代前半までそうだったと思う。
ただし今は、「皆結局悩んでて、でもその部分は見せないから、つまりわからないよね」という面白くない考えに着地しているため、今回はさほど印象に残らなかった。
―その代わり、大体中盤にある以下の場面が、何故か今回はすごく刺さった。激しい同意とでも言おうか、葉蔵の思うことが、僕の考えとシンクロした気になったのだ。
それは以下の太字の部分である。
世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。
けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、「世間というのは、君じゃないか」 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)
汝《なんじ》は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣《あくらつ》、古狸《ふるだぬき》性、妖婆《ようば》性を知れ! などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、「冷汗《ひやあせ》、冷汗」 と言って笑っただけでした。
けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。
世間は人間の複数であり、実体を持たないが、強く厳しく怖いもの。しかしその実は、集合体としての何かではなく、単なるその人自身ではないか。
例えば「それは常識的に考えていかがなものか」という物言いのほとんどは、世間の常識ではなく、その人の常識(や偏見)にそぐわないことの表明だ。
僕は別に他者を無条件に否定したり恐れたりしているわけではないのだが、この部分が何故かすごく刺さった。
そしてその理由を丁寧に考えていくと・・自分の心の闇の、別の側面がまた見えた。今日はそんなお話である。
僕が人混みを嫌う訳。
昔から人混みが嫌いだ。その理由は、単にごちゃごちゃした人間の群れの中にいると、余計な刺激が多すぎて疲弊する・・というのが6割くらいだ。
もう4割は、その集団の人たち全員が自分より秀でた存在に見えて、洪水の如くそれに触れていると、それだけでなんか勝手に打ちのめされてしまうからだ。
例えば昨日も実は帰省ついでに街に飲みに出たのだが、合流までの途上は本当に、自己否定の声との闘いがずっと繰り広げられていた。
「前から歩いてくるあのいかつい人は、俺より腕っぷしが余裕で強いんだろうな」
「横を歩いているあの高校生は、きっと勉強ができて、俺より優れた未来が保証されているんだろうな」
「婦警のコスプレをしたあの若い女の子たちは、きっと金を持ったオトコからアプローチがひっきりなしに来て、色々満ち足りた人生を送っているんだろうな」
などなど。他にも高級腕時計が並ぶ店を見れば、「ここはお前の来る場所じゃない」と言われたかのような気になるし、カップルがいれば、別世界の住人としか思えない。
周りは本当に敵だらけ?いや、そんなはずはない。僕がわざわざ敵意を向けられるほどの個性を、世間に向けて発していると考える方が不自然だ。
そういう風に、他者の存在を起点に、今の自分と、無責任な理想像とをぐるぐると比較してしまうクセがあるため、僕は人混みが凄く嫌いなのだ。病気である。
―こんなとき、脳内に閃いたのが、「人間失格」のこの部分だ。
世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。
あるようでない、人間の複数の実体。実体のない複数に、僕は何の注目を浴びているのか。僕もまた実体のない複数の一つなのだから、つまり透明なのではないか。
そう思ってから人混みに目を向けると、幾分冷静さを取り戻せて、どこか感情的に俯瞰した心持で、やっとそれらを眺めることができた。
僕の暴走した自意識過剰っぷり。扁桃体に簡単にジャックされたことを自覚して、「しょうもねぇなぁ」と己のメタに悪態をつく。
―そんなときふと、ゴスロリの恰好をした、お人形さんみたいにスタイルが良い美人二人組と、すれ違った。そのときは素直に、「きれいな人だな」と、確かに思った。
だがそこから1日しか経っていないのに、僕はその人達の容貌を、詳細に思い出すことができない。衣装の色も、背丈も、何もかも、思い出せないのだ。
圧倒的に秀でた美貌や衣装、個性を放ちながらも、僕の記憶に刻まれない。そこまで圧倒的な「ひととちがう」ものを兼ね備えた存在でさえ、その程度なのだ。
ならばやはり、無個性な一個体である僕が、誰かから注目を浴びるとか、あり得ないじゃないか。そう理解して初めて、完全に心が落ちついた。
―「人間失格」で大庭葉蔵は、他人や世間を理解できず、道化を持ってなんとか繋がろうとしたが、その後は情死事件を起こしたり裏切られたりを繰り返し、孤立していく。
そして最後には、仔細は省くが、自分で自分に人間失格とレッテル貼りをするほどの廃人に堕してしまう。読了した感想は、やはり結構後味悪いものである。
この作品の中では、他者に抱く秘密、理解し得ない部分への恐怖を、「不意に虻《あぶ》を叩き殺す牛のしっぽ」と表現している。
誰しもが世間体や愛想の裏に、こういった残酷さや攻撃性を隠している。そういう不信は、僕の中にも多分ある。だから人混みが嫌いなのかなとも思う。
しかし、そういったものを隠した世間の側からすれば、僕はどうでもいい存在なのだ。卑下でもなんでもなく、真理ってそんなものではないか。今はそう納得する。
僕の存在を気にしているのは僕だけなのだ。これが僕が世間体に抱く不信や恐怖の正体の根源だとすれば、また違った観点から自分の感情を観察できる気がする。
ところでふと思ったのだが、「世間」とはどういう意味なのだろうか。例えば「世界」や「社会」とは、どういった意味の違いがあるのだろうか。
ということで辞書を引いてみた。ただ、思った以上に意味がいくつもあったので、その中でも関係ありそうなものだけを紹介する。
1 人が集まり、生活している場。
がそこで日常生活を送っている 。世の中。また、そこにいる人々。「—を騒がした 」「—がうるさい」「—を渡る」
2 人々との交わり。また、その交わりの
。「—を広げる」
6
に対する やそれに要する 。
「—うちばに構へ、又ある時は、ならぬ事をもするなり」〈浮・
・四〉
この中ですごく腑に落ちたのが、1番の説明だ。世間と世界の違いは、自分がそこで日常生活を送っているかどうかという点にあるとすると、すごく理解しやすい。
世間旅行と言うとヘンな響きになるのも、あるいは世界体という言葉が存在しないのも、同じ根拠で納得ができる。
「世間とはきみじゃないか」という葉蔵の叫び。この言葉の意味合いが、僕にとって更新されたかのような感覚がある。
”世間を代弁しているような口ぶりで話しているけど、それはつまりきみが僕にそう思っているということじゃないか”という方が実際の話に近いのではないか。
そしてこの論理は、実は綺麗に反対を向くような気がするとも、僕は感じている。つまり、世間の側は何とも思っておらず、意味付けはいつも僕が行っているのではないか。
世間にとって僕は、取るに足らない微小な”個”だ。そんな僕は、世間を恐れている。僕より格上の存在だけでできた巨大な集団というイメージを持っている。
だが、格上の存在だけでできた巨大な集団という印象は、僕が勝手に持っているだけ。敵意も何もありはしないのに、僕が勝手にそう意味づけをしているだけなのだ。
それに気付いたとき、僕の思う世間は、感情にもバイアスにもコンテクストにも歪められて、実態とはかけ離れた存在になっていると悟った。
冷静に観察してみれば、世間の側は何のメッセージも発していない。僕が勝手に疎外感を抱いているだけ。なんというか、すごく拍子抜けする気持ちである。
そこへの参加資格など要らない。努力してようがいなかろうが、実績があろうがなかろうが、世間はいつでもぼんやりと存在し、拒みもしないし、受け入れもしないのだ。
―改めて人間失格を読んで、こんな考え方が僕の心に浮かんできた。今の僕は、主語を自分じゃないところにおいて、世間を観察できる気がしている。
そちらの方が健全な気もする。本当にそうなのかは、またこれからわかってくることだと思うけど。
ということで色々と意味不明な感じにはなったけど、今日はこの辺で。