最近どうすれば目覚めをシャキッとできるのか、10個以上の施策を順繰りに試してワクワクしています。中元です。
―突然だが、皆様は【嫌われる勇気】という名著を読まれただろうか。僕ももう、少なくとも5回以上は読んでいるくらい、馴染みのある本である。
先ほどぱらぱらと読み直してみたが、賢人(≒アドラー)の説く幸せもとい自由とは、【人から嫌われること】とあった。
その理由はざっくり言うと、「自分らしく正直に生きるためには、自分の課題に介入させず、他者の課題に介入せず、そして期待に答えようとしてはならない」ためである。
結果、嫌われることも増えるよねという結びである。当初これには超納得したのだが、だからといってどうすればいいのか、具体的な行動に落とし込めたわけではない。
―そんな状態で10年近く経った今、全く別の偶発的な出来事のおかげで、僕は「あぁ、自由ってつまり、嫌られることだね」と悟っている。
今日はそれをテーマに、記事を書いてみようと思う。
嫌われると、色々とどうでもよくなっちゃうよ。
少し昔話をする。といっても、こっからのは過去何度も語った話ではあるけれど。
僕は人から嫌われること、笑われることが病的に怖く、それを避けるために自分を殺したり偽ったりということを、瞬間的に選んできたタイプである。
まるで【人間失格】の冒頭のようだが、あれは人見知りでネガティブかつ、嫌われたくない人であれば誰しもが通る道、内内に秘めた闇なのではと感じている。
また結果、他者からの期待に応えるような自分であり続けようとした。世間がいいと言えば自分に合わずとも追いかけて、達成してもどこかに不満を感じていたものだ。
そうやって徹底して自分を殺してきたのが20代前半までであるが、いっぺん心をへし折って復活してからは、そういうのもだいぶマシにはなってきたと思っていた。
しかし心の奥底では、どうにも嫌われることへの恐怖が火のついた炭のごとく確かに存在しており、いつも不安に炙られているような感覚は確かに感じていた気がする。
―が。
ついこないだ、完全に理不尽なことで、僕は怒鳴られ、人格否定をされるということがあった。つまり恐れていた【嫌われる】ということが、実際に起きたのだ。
さて、僕はどうなっただろうか?再び適応障害を発症し、今はまた内服薬を処方されている状態なのだろうか?
いいえ。なんというか、30年間の人生で一番、今が心穏やかである。徹底して嫌われたことによるダメージ。その率直な感想。
それは、「俺はこんなもんを恐れて、自分のしたいことを堪えてきたのか。アホくさ」という空虚感である。
すごく怖そうな見た目の人が、いざ殴り合いになったらクソ雑魚だった感じに似ている。今僕は、あきれ果てた結果、穏やかな心持になっているのだと思う。
人生を投資しまくってまで避け続けた、【嫌われること】。そこまでやっても避けられないばかりか、ダメージは思った以上に少なかった。
―となれば、だ。
人の顔色を伺って自分を殺すのって、超アホくせぇじゃんか。
HIPHOPの歌詞にも、実業家の本にも、成功者のインタビューにもあった教え。過去何十回も触れてきたメッセージ。納得しつつも、憧れに近かった心境。
偶然の出来事がきっかけとはいえ、僕はその境地についに届いたようである。
もちろんだからと言って積極的に嫌われるような真似はしないが、イヤと思えばイヤと言える自分になったと思うし、交渉も今ならできると思う。(というか、できた)
理性の飛んだ人を相手にしても、「犬が吠えてるみたいだな」と、どこか見下せる自分がいる。怒られても、馬の耳に念仏。教えだけ受け取ったら、感情は捨てていいのだ。
もちろんこれは劇薬に違いないし、立ち直れないほどのダメージを、クレーマーから受ける人もいると聞く。
だが僕は、嫌われることによって、なんか知らないが、自分のレベルがここへきて上がったのだ。
嫌われることで、今までの努力がクソ無駄だと気づけた。そして今、僕は結果、メンタル的には自由である。
ようやっと、自分に正直に生きられるようになったのかなと、今後の人生に結構期待している。そういう意味ではあのクレームには大感謝しかない。
終わりに。
今回のでよくわかったが、どれだけ努力しても、あなたに敵意を剥き出しにしてくる人間は出てくる。話が通じない人間もいる。
徹底して嫌われるのは怖い。だから避けようとさらに努力する。そのループが強制的に止まったのは、本当にめっけもんだった。
「オメェのことが気に食わねえんだよ!」と言われても、「そっすか」という話だし、殴られればGoTo警察で良いのだ。
諦めるって、悪くねぇな。逆に完璧って、疲れるだけだな。そんなもん存在しねぇのに。
―ちょっとした愚痴めいた結びにはなったが、今日はこの辺で。