僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

「ネガティブ」で片づけず、自分の観察を続けたい。

2022年現在、最もストレスを減らす思考術は、【他者への期待をやめること】です。

一日中遊ぶと、筋肉ではなく関節が痛くなる自分に、少しだけ老いを感じます。中元です。

 

はい。2022年も始まってほぼ半分が終わったという現実にドン引きなのだが、ここ最近、ある心がけを知ってから、ストレスを秒で消すことが可能になってきている。

 

それは、【他者に期待しない】ということである。ちなみに、以下の本で知った文言だったが、読み返せば結構色んな人が、おんなじことを言っていた。

 

・・・僕は当初、この言葉に反発した。相互信頼で成り立っている人間社会からそれを捨てるのは、寂しい話ではないか、と。

 

しかしよくよく考えてみると、その言葉の真意というより、自分の虫の良さが段々とわかってきて、反射的に否定した自分が浅薄で恥ずかしく思えてきている

 

そしてそのマインドで人生を送ってみると、あら不思議。ストレスがマジで秒で消えるようになったのだ。正確には、鎮火までが異常に早くなったという感じ。

 

ということで今日は、参考図書も時折交えながら、【他者に期待しない】の真の意味を僕なりに解釈して、ここに書いておこうと思う。

 

 

【他人はあなたの期待を満たすために存在しているのではない】

ぶっちゃけ語弊があるのを承知で言うのが、誰かに一方的に【期待】するというのは、非常に厚かましい考えだと最近は思うようになった。

 

そもそもなぜか、【期待】という言葉には、偶発的な出来事が、自分にとって最良の形で実現すると信じる、みたいなニュアンスを感じる。

 

例えば宝くじがわかりやすい。当たる確率は十把一絡げに天文学的な低さなのに、自分は当たると信じ、外れるとイラつくあの光景にそっくりだと感じている。

 

だからこそ、例えば監督が野球選手にかける「お前ならヒットを打ってくれると期待している」といった前向きな言葉にも、僕はやや不快な意味合いを覚えてしまう。

 

こうなるとなかなかに厄介で、状況的には「ヒットを打つのが当たり前」となり、逆にしくじれば「なにやってんだ!」と裏切られた気分になってしまう

 

確率的には、リアクションは真反対にすべきなのだが、なかなかに不思議なメンタルのマジックである。実際は、外れて当然、当たってラッキー、なのだ。

 

・・・そしてもっと不思議なのだが、かくいう僕も無自覚のうちに、他者に対してこういった【期待】を前提に接するようになっていたのだ。

 

例えば仕事を依頼する。その仕事を、自分の想定より速く正確に仕上げてくれる。それをデフォルトに考えてしまっていたのだ。恥ずかしい。

 

バイトは数年以上続けて当たり前。1を聞いて10を理解するのが当たり前。そんな風に。僕は権力とは縁のないポジションなのだが、この思考に汚染されていたのだ。

 

一体、なぜ僕はこうも傲慢になってしまったのか?しかも、知らない間に。その答えは、結構簡単なところにあった。

 

僕の目を覚ましてくれたのは本だったのだが、その目を曇らせていたのもまた、本だったのだ。この罠は、意外と盲点かもしれない。

 

ってことで次章では、それについて触れていこう。

 

視座を上げることは格を上げることではない。

 

僕は、ある種の真理のヒントが書いてありそうなビジネス書をよく読む。それこそ、今を時めく人たちが書いた言葉の数々を、シャワーのように浴び続けた時期もある。

 

その中には、非常に基本的なビジネスのマナーから、心配りのコツまで、まさに基礎から応用まで様々な知恵が並んでいた

 

元々そういった知識は使わないと意味がないと考える性格なので、片っ端から実践し、手応えがあったらそれ以降も用いるなど、血肉に変えていったのも間違いではない。

 

・・・すると不思議なもので、「俺はこんなに頑張っているのに」という自分勝手ではた迷惑な自意識が、僕の中で育まれてしまっていたらしい。

 

つまり、周囲に対し、本に書いてあるような教えを、皆も実践するべきだというイタい思考にすり替わってしまっていたというのが、本当のところらしいのだ。

 

努力とは自分のためにするものであり、結果マウントを取るために使うものじゃない。クソ野郎である。穴があったら入って入り口を封印したいくらいの恥である。

 

一時期割とストレスがハイな頃があったのだが、それもまたここに起因すると考えている。僕こそが、他者に一番【期待】していたのだ。

 

ーそして先述の本を読んだ結果、僕の肩の力が完全に抜けた。今思えば人生における雑味に近い時期だったと思うのだが、あの頃は青かった。

 

その炎をスッと消すようなイメージで、僕は周囲から、僕の【期待】を割り引いた。すると、やっぱり、ストレスはウソみたいに減っていったのだ。

 

では最終章で、その具体例を列挙して、終わりとしたいと思う。

 

【やってくれたらラッキー】

他者に期待しないという言葉に抵抗があるのなら、同じ意味の別の言葉に置き換えたらどうだろうか。それは、【自分の理想を他者に押し付けない】である。

 

僕はよく、苦手と自覚しながら、他の人に仕事を依頼する。ぶっちゃけて言えば、「この条件で受けてほしいなぁ」という”あわよくば”的なものはある。

 

だが、「いや、どうせその条件は無理だし、何なら断られるだろう」というところまで割引く。そのうえで、依頼を出すのだ。

 

すると、どうなるか。現実的なプランBやCを、勝手に考えるようになる。「その場合はあの人にお願いしよう」とか、「最悪自分がやろう」という風に。

 

結果最初の人が受けてくれたら、めっちゃ嬉しいという感情が先に立ち、なんかトクした気分になる。仮に断られても、事後策があるので、どうでもいい

 

本来はリアクションとして、こちらの方が自然というか、論理的なはずなのだ。歪になったそれを元に戻すには、これくらいがちょうどいい。

 

尚これは、自分に不都合が降りかかってきた際も同様だ。例えばさっきも、来月末で辞めたいという連絡がバイトから来たのだが、まったく動じなかった

 

「まぁ、流動的な雇用契約だからねぇ」という風に。あとは事務的な手続きや引継ぎといった動きを進めればいい。もちろんこの過程でも、期待はしない。

 

またこないだも、割と我ながら理不尽な命令をしれっと受けたことがあるのだが、この際はその人に対し、さらに【期待】のランクを下げるようにした

 

「そろそろ八つ当たりでもくるか?」そんな風に最悪マネジメントに近いところにまで下げれば、大抵ストレスはなくなってくる。想定の範囲内だからだ。

 

もちろん、自分自身に対しても同様だ。こないだ会社の飲み会で記憶を飛ばしたのだが、「どうせ言っちゃいけねぇグチを言っている」と考えている

 

仮にそうだったとして、「でもそこをぐちぐち言ってくるやつも器が小さいよね、言われたら謝ればいいや」という風に割り切っている。僕は自分にさえ、期待しない。

 

僕にはカリスマ性はない。誠実性もさほどない。世界中に遍く存在する秀才のことを思えば、勉強ができるなんて口が裂けても言えない

 

”-では、どうするか?”ないものねだりをしている暇があったら、さっさと夢を見るのをやめて、次のカードを切った方がましだ。

 

そもそも論、僕はこの世にすら期待していない。起きてほしいことは起きないし、起きてほしくないことは起きる。そう考えて毎日生きているほどだ。

 

しかし不思議なもので、「ラッキー」と思うことは、期待することを止めて以降めっちゃ増えた。逆説的ここに極まれり。

 

皆さんも期待を止めてみてはどうだろうか。そうされることを、僕は期待していないけど。

 

ってことで今日はこの辺で。

 

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