昨日YouTubeを観ていたのだが、普段おちゃらけた言動ばかりする人が、すごく真剣な顔で、不安や葛藤といった胸中を吐露している場面があった。
その人はまさに11月26日(日)に大きなコンテストを控えているのだが、僕はその平素からは伺えないその顔と言葉を見て、すごく刺さるものを感じた。
その一方で、別のフォロワーの人が、アンチスレを見て誰のアンチか当てるみたいなクイズ企画を持ってきていた。その企画自体の是非は、今はどうでもいい。
ただそこで一部紹介されていたコメントを読んだとき、僕はなぜだか、さっきの人を応援しようと、改めてその意識が高まったのを感じたのだ。
アンチコメを読んで、どうして僕の中に応援の気持ちが高まったのだろうか。冷静に考えれば考える程、不思議な繋がりをぼんやりと感じる。
この辺りをしっかり観察すると、また面白い発見が得られるかもしれない。今日はそういう思索の記録である。
僕は”どっち側”にいたいのか?
【アンチ】と【応援】は、実のところ純粋な対義語にはなっていない。国語的に考えても、具体的な名詞と行動を比べたところで、何かしっくりこない。
ところで、そもそも【アンチ】の定義とは何だろう。調べてみると、こんなのが出てきた。
アンチとは、英語の「anti」を語源とする、「反対・対抗・排斥」などの意味を表す言葉です。
アンチウイルスソフト、アンチエイジングといった使われ方をします。
ネット上で用いられる場合には、SNSや動画投稿サイト、ニュースサイトのコメント欄などにおいて、投稿者やコンテンツ内で触れる個人・団体などに対する反対意見を述べる人を指すことが多いです。
こうやって淡白な文章で書かれた方が、感情を混ぜずに考えられる。要は【排斥】【誹謗中傷】【価値観の押し付け】などを目に見える形でやってくる人たちの総称だろう。
そしてその根っこには、大体拗れた【嫉妬】が潜んでいる。頑張る人を見て、自分がそうでない現実にイライラし、引きずり下ろすためにエネルギーを割く。
かくいう僕も、その気持ちが判らないでもない。10代後半の頃なんか、わかり易くアンチ側にいたためだ。(詳しくは以下の記事に書いた)
hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com
この辺まで考えてたところ、アンチの言葉に触れた瞬間、僕の中で応援したい気持ちが高まった理由が、すぐに理解できた。
アンチと応援は相容れない。頑張る人がいたとき、嫉妬する側と応援する側、どっちかにしかいられない。僕は無意識の部分で、応援側にいたいと思ったのだろう。
ここで嫉妬や嘲笑というアクションを取ってしまえば、僕はアンチ側の住人になる。そこには足の引っ張り合いと傷のなめ合いしか存在しない。
そんなのは心底嫌だ。過去そういうことをしていた時期があるからこそ、今冷静に考え直しても、強くそう思う。
誰かを素直に応援することは、つまり自分はアンチ側ではないという、強いメッセージとなる。嫌悪が転じて、強い応援に繋がるとは、面白い話ではなかろうか。
【論破力】か何かにも書いてあるが、人は全員に好かれることは無理だが、全員から嫌われることもまた不可能だとされる。
一例として、迷惑系YouTuberという存在がいる。その名の通り実害を伴う人間を指すのだが、そこにも割と熱狂的なファンがくっついていたりするように。
嫌われ者を興味本位で見たいというのが多数だろうが、純粋に何か共感するところがあって応援したい人も、母数を考えれば混ざっているに違いない。
アンチがいるとき、そこには「俺はアンチじゃねぇ!」というアンチアンチも同時に隠れているということだろう。アンチアンチはつまり嫉妬の反対、応援ということか。
そういえば、アンチがいない人は、何の影響力も持てていないという話をどこかで聞いたことがある。アンチと支援者の、どちらかしかいないのはあり得ないのだ。
この社会に生きる人間の一個体である以上、自分がアンチによる不条理な目に遭うこともあるだろうし、そういう目に遭っている人を見ることもあるだろう。
僕はそれをみて、嫉妬に同調するのではなく、そっと応援できる側であり続けたい。そのために日々努力しようと、改めて誓っている。
では今日はこの辺で。