最近、色々なアウトドアのソロ化が顕著だ。
例えば、ソロキャンプ、ソロバーベキュー、ソロ焼肉、独り旅等、枚挙に暇がない。
元々独りでやるものは据え置きで、本当に色んなことを一人で楽しむ人が増えているなぁという印象だ。
『あの人独り、ププッ』という声が的外れになってきているということでもあるのかな。もしそうなら、僕としては大歓迎だ。
その声の反論として、『みんなと一緒の方が楽しいじゃん!』というのが挙がる。正直、否定はしない。楽しいことは否定しない。
しかしそれも、モノによる。誰かいた方が嬉しい時もあるが、独りの方が気楽で楽しい時もあるのだ。
ということで今日は、『皆で』と『独りで』のボーダーが消えつつある現在において、『皆でいった(した)方が楽しい』とされているものを考察してみようと思う。
ネジくれきった寂しい思想と言われてもどうでもいい。早速書いてみよう。
水族館。
鉄板のデートスポットである。
僕は個人的な嗜好として魚が大好きなのもあり、幼少期から足しげく連れていってもらったものだ。
ということでここは、家族で来たり、彼女や意中の相手と来たりするのが定番とされる。喪男が来るべき場所ではないということか。
実は、僕は二十歳の頃、水族館に独りで行ってみたことがある。動機は魚が見たかったから。以上。
そしてそれが結構楽しかったのを覚えている。
僕の行程は無茶苦茶で我儘だ。瀬戸内海コーナーといった身近な環境の魚が好きで、その水槽の前で10分くらいは立ち止まる。
しかし逆に、熱帯魚等の水槽は不思議とそんなに興味がなく、1分も見ずに次々と流す。
太平洋のパノラマ水槽は好きだが、3分くらいで満足してしまう。でも、コイとかフナの水槽はずっと見れる。
ピラルクという魚が大好きで、気付けば大量の写真を撮ってしまう。
一方、ペンギンやイルカショーにはあまり惹かれなかったりもする。やはり無茶苦茶だ。
こんなのに人を付き合わせるのも悪いし、かといって他者に完全に合わせれば僕が楽しくなくなる。
自分の中では、よほど打ち解けた友人等でない限り、水族館は独りの方が楽だなと思っている。
理由は言わずもがな、自分のこだわりが強すぎるからなのだが。
お酒。
宴会は嫌いじゃない。コンパも誘われれば行く。でも、いつもいつでも大好きかと言われれば疑わしい。
絡み酒・独身彼女無しであることの遠回しなイジり・出元の確かじゃないゴシップ。これらは正直辟易する。時間の無駄感がすごい。
自分が年齢とかキャリアで上になれる会があれば、僕はなるべく上記の要因を排除する。たぶん、同席していて面白くはないのだろうけれど。
気を遣い遣われ。そういうのを考えると、やっぱり独りで飲む方が僕は気楽だなぁ、と。
まず、開始時間や終了時間は僕の思いのままだ。何を食べようが僕の勝手なのもある。何をどれくらい飲もうが自由だ。
また、代金はきちんと飲んだり食べたりした量に比例する。
途中合流の会とかだと、食べ残しとぬるいビールで4000円なんかの時もある。何かが噴火しそうにさえなる。
過去何回か、独りで居酒屋に入って、気の向くまま飲んでみたことがある。
家での独り飲みとは違った面白さがあり、ちゃんと満腹、ちゃんと酩酊し、楽しかった。値段もまぁそれなりだったけれど。
だから押しなべて言えば、僕は独りで飲む方が好きなのかもしれない。ただし、僕の家で、人を集めるときは、その限りではないと付記しておく。
小旅行。
お金に余裕があり、かつ自分の中でどうしても見たい・知りたいものがあると、たまに独りで旅行に出る。
と言っても、泊りのそれはまだしたことがない。いずれやってみたいという気持ちは強いけれど。
その旅行とやらに、同伴者を連れていきたいかどうかと言われれば、正直かなり悩む。
理由は簡単で、これまた僕の嗜好が大衆向けでは全くないからだ。
例えば、半年くらい前、僕はどうにも幕末の情景を感じたくなり、萩へ出掛けている。
その際立ち寄ったのは、博物館、城下町、古民家、魚市場、神社、墓地と、デートのデの字にも合わないものばかりであった。
誤解無きよう言っておくと、この旅行は、非常に大きな収穫もあり、大変面白い旅路であった。
その旅行記はこちらである。よろしければご一読いただけると嬉しい。
hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com
hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com
hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com
話を戻そう。旅行に同伴者を求めるとなると、色々と計画を作るのが大変になる。
どこに集まる?どこに行く?予算は?宿はどうするの?そもそもどうやっていくの?
―書いているだけでなんか面倒になってきた。計画を作るのは嫌いではないのだが、やはり独りで我儘プランを作る方が簡単だ。
それに、僕が小旅行に出たくなるとき、その動機は大抵癖がスゴい。
今僕は、実際とても動物園に行きたい。その後、温泉に行って回転ずしを食って帰りたいと思っている。
また、門司港にも行きたい。明治のレトロな雰囲気は、あそこに行けばかなり体感できる。名物のバナナケーキも久しぶりに食いたい。
何なら、鹿児島まで車をぶっ飛ばし、豚トロラーメンと白くまかき氷を食べて帰るという弾丸ツアーだってやってみたい。
夏休みは鹿児島県の沖に浮かぶ離島に、釣りだけをしにバカンスしたい。
―如何だろうか。僕のプレゼン次第ではあるが、同行者が全然集まらなさそうなものばかりだ。
こういうのに無理やり人を集めようとは思わないので、やはり僕は、小旅行には独りで行きたいと思うのである。
しかし、友人とキャンプなどは好きだから行く。つまり僕は精神が未熟なだけなのかもしれない。
終わりに。
こういう『独り』に嗜好と思考が固まっていく原因を考えてみた。
多分、流れは以下の通り。
人見知り故、誰かと接するのが苦手
↓
必然的に、自己完結の趣味などを嗜むようになる
↓
それを誰かとシェアする体験が希薄になるから、自分オリジナルの価値観が完成していく
↓
気付けば、そこに誰かを入れるのがもはやストレスになる域にまで完成している
昔っから他者と関わり合い、色々な時間をシェア出来る人種は、誰とでもどこにでも行けるのだろう。
それに合わせて自分のリクエストを調整するのも平気なのだろう。その器のでかさには感服する。
彼らは『皆と一緒』が楽しいのだろう。でも僕たちは、『独り』が楽しいのだ。
ズレの原因は価値観にあり。僕らが一方的に、『イケてる』とされる、なりたくもない価値観に無理やり合わせる謂れはない。
堂々と好きな物を、喜々として『独りにて』満喫しよう。そんな人生のが楽しそう。
改めて僕は実感した。
来週カネがあれば、動物園に行こう。
無論、独りで。
そっちのが気楽だから。
そしてそれで、多分正解だから。