○活が流行っている。
婚活、就活、終活等々が筆頭である。この市場はかなり巨大なのか、サイトも本も大量に見受けられる。
一方僕はどうだろう。就活も終活も現状必要ないし、婚活はかかる費用が滅茶苦茶で敬遠している。
だが現在、ざっくり30歳頃の完成を目標に、ある『活』を考えているところだ。
それは、『独身活動』略して『独活(どっかつ)』。
「自分は生涯独身で生きる」という運命を受け入れて、それに向けた準備を整えるというのがそれ。
では、具体的に何に取り組んでいるのか?今日はそのリストを、理由という名の言い訳を添えて紹介しようと思う。
マインドセット。
まず、気持ちづくりからだ。恋愛とか結婚に関する『現実的な』データを列挙すると、正直ハイリスクが過ぎると考えてしまう。
ドラマや漫画、小説における手垢だらけのストーリーは、フィクションだから起こり得る。
預金通帳を見たとき。鏡で自分の顔を見たとき。今までの自分を振り返ったとき。
「受け入れようぜ僕よ」という声が心の底から響いてくる。何を、というのは推して量るべきだ。
そういったリスクを全て背負い込めるほどの出来事やら人物に出くわしたら話は変わるのかもしれない。
しかし、その要素に期待するのも変な話だ。
だから僕は、このまま今までと似たような流れで人生が進むと考えているし、それで良いとも考えている。
ちなみに両親には報告済みであり、僕の一族の血筋は弟に託すこととした。
『リアル』なデータを見てどう感じたか?自分のステータスを客観的にみてどう思うか?
アオハルなサムシングはそれらのリスクを遥かに上回るほど、あなたにとって魅力的だろうか?
結果『No』となるのなら、独りで生きていく準備を整えるほうが健全だと僕は思うのだが、どうだろうか。
健康維持。
となれば、あとは死ぬまでの暇つぶしを考え続けねばならない。
全ての基となるのは、己の身体である。好きな物を食べて飲んで、好きな時間に寝るのはもちろん良いのだが・・
結果体を壊しては元も子もない。せめて、健康管理の術を知り、習慣の中に取り入れ始めるべきだ。
僕は有酸素運動をまだ習慣に落とし込めていないものの、トレーニングの方はルーティン化出来ている。
野菜ジュースなんかは意識して摂取しているし、浴びる程酒を飲むのも止めた。(次の日死ぬし)
睡眠も重視し、寝具には結構な投資をしている。
「まだ若いから」と健康を軽んずると、結果もっと年を重ねてからしっぺ返しを食らうに違いない。
独りで生きるのなら、能動的に働きかけて暇を潰せるようにする必要がある。
遊ぶためには健康な身体はもはや前提だ。そのメンテナンスを放棄してまで娯楽に費やすのは止めた方が良い。
その習慣は早いうちに構築してしまおう。生活の一部にさえしてしまえば、継続はとても楽だ。
『独り耐性』を付けておく。
色々な場所に独りで行けて、楽しめる人間は強い。変な気恥ずかしさを捨てられる図太さも、早いうちに磨いてしまおう。
例えば、実は今博物館に行きたいと僕は考えている。単純に最近読んだ歴史小説が面白かった影響なのだが。
同じ理由で、京都に旅行へ行きたいとも考えている。地方をまたぐので、さすがに泊りでないとしんどい。
そういったときに、同行者を募らず独りで飛び出せるかどうか。
ここは、イメトレ等による訓練なんかではなく、場数を踏んで慣れる必要がある。
今の自分の限界は、独り水族館や独り海水浴(ただしメインは釣り)くらいにある。
ゆくゆくは泊りでの独り旅もしてみたいし、ソロでのキャンプだってしてみたいと思っている。
独りで独りを満喫する術は、集団のそれとは似て非なるものだ。しかも、これは個々人が作り上げていく必要がある類だと思う。
移動手段はどうでも良い。独りでどこまで行けるのか?どこまで楽しめるのか?一方、何は楽しめないのか。
そういった自分の基準も、早い段階から作り上げ、そして知っておく方がベターである。
『趣味仲間』を作る。
先述の話に矛盾するようだが、『趣味仲間』の存在はやはり大切だ。
『趣味を同じくする』ということだけを接点とする仲間は、ある種ドライな要素を含むため、維持も交友も色々と楽だ。
かつ、似たような価値観を共有しているという前提があるため、コミュニケーションを取るときも結構安心できるのが大きい。
例を挙げると、僕は魚釣りが大好きで、たまに大物を求めて船に乗りたいとも思う。
しかし船は1人で乗るものではなく、少なくとも片手の指の数くらいは同行者を集めなければならない。
そういう時に、いわゆる『趣味仲間』の存在は大切だ。好きなのは分かっているから、誘うのも気楽。
独りでも楽しめるようにマインドを作るのも大切だが、誰かがいないと無理なものを楽しみたい時などは、やはり同じ気質の仲間は重要である。
『代替手段』を考える。
テクノロジーや産業の発達の恩恵は大きい。今や、あらゆるサービスが、一昔前の常識の代替手段として誕生している。
例えば、僕の友達の中にも、『愛』の代替手段としてガールズバーだの風俗だのにハマっているヤツがいる。
恋人がいなければ満たされない要素は、今や代金と引き換えに得られる世の中である。
さらには、聞いたところ、『レンタル彼女』なるサービスまで存在するらしい。一体第三次産業はどこまで手を伸ばすのだろう。
また、VRの登場も大きい。ゆくゆくは、外国の絶景も、家に居ながら体験し、感動できるのではないのだろうか。
代替手段の欠点は、あくまで代わりであり、本物には及ばないというものがあった。
しかし、最近はもはや本物を凌ぐほどの魅力を備えているものも多い。
とあるインタビューにおいて、『バーチャルな世界の女(男)の子は、自分だけを見てくれるし、浮気しないし、いつまでも綺麗(カッコイイ)』というコメントを発している人を見た。
「現実に疲れてるなぁ」と思うと同時に、共感できる部分もあったため、全然他人事に聞こえなかったのを記憶している。
理想や憧れがある。しかし、膨大な努力をしても届くかさえ微妙。そんな時は、周りのサービスに目を向けてみよう。
代替手段で満足してしまうのであれば、つまりそういうことなのだ。
終わりに。
僕の年代は、『さとり世代』と呼ばれる。
バブル崩壊の直後に生まれ、色々な社会における神話が崩れていくのを目の当たりにしてきたというバックグラウンドがある。
会社に長く勤める”だけ”で地位も給料も上がっていくシステムの意味が分からない。
企業”から”学生に求人がくるなど、想像だにできない。
世間においてそうであっても、自分にとっては必要としないものに投資する。無駄だと思う。
青天井に壮大な夢を描き、気合・根性で突き進む。過労死するだろうと反発してしまう。
嗜好も生活もミニマムにすることは悪いことなのだろうか。純粋に僕は疑問に感じてしまう。
思いの丈を書いてみると、確かに自分は欲が無い厨二病だなと、少し面白くなってしまった。
だが、こういう生き様の方が幸せになれる人も絶対に多いはずだ。少なくとも僕はそうだ。
色んなしがらみやめんどくさいことから『独立』する『活動』。琴線に触れたのであれば、始めてみるのも一興ではなかろうか。