僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

「ネガティブ」で片づけず、自分の観察を続けたい。

ネガティブの深みから脱する最高の要素はこれじゃね?という話

 

ここ最近はメンタルを思い切りやられた。

 

コンプライアンスに多分抵触するので突っ込んだことは言えないが、まぁ絶対的に信頼を置いていた相手先にけちょんけちょんにされたとかそんな感じ。

 

生粋のネガティブを増幅させる最たる要素の一つに、僕は『拒絶』があると感じる。

 

他者からの拒絶は、故意にせよ何にせよ、相当なダメージを心にもたらす

 

一説によれば、それはガンの苦痛にも並ぶのだとか。『そんなもんか』というより、『やっぱりそんなに辛いんだ』という印象だ。

 

そこからお得意の反芻思考が始まり、しばらくぶりに僕はネガティブの底を彷徨った。時間にすれば24時間くらいかなぁ。

 

でだ。

 

今はそれを脱した状態であり、疲労感こそあるものの、気持ちは割と落ち着いた。

 

理由は、たまたまだが『特効薬』に巡り合うことが出来たからだ。

 

今までもうっすら、それが特効薬だと分かってはいたが、今回は『やはりそうだ!』ハッキリ自覚したという次第。

 

だからここに、忘れる前に書くことにする。

 

 

 

 

ネガティブの螺旋を脱するには?

 

それは『承認』だ。抽象的過ぎて意味が分からない。

 

そもそも、『拒絶』によって失ったり損なったりするのは、大体『自尊心』と『自己肯定感』である。

 

叱責とか何だとか種類はあるが、自分が『拒絶された』と感じたとき、上記のどちらか或いは両方が傷ついていると考えて差し支えない。

 

後はお得意のネガティブの螺旋である。

 

『怒られちゃった』→『一体何が原因なんだろう』→『恐らく俺が原因なんだろうな』→『俺はダメなんだろうな』→『クソだな俺』

 

ここまで行くと、あとは自動的に『自分』が追い詰められていく。この流れの極みが、鬱病を始めとする精神的な病である。

 

強い気持ちがあればそもそもネガティブスパイラルにハマらないし、理性が勝れば意識的にそれをカットできる。

 

では、そのどちらでもない僕のような人間は、どうすればそこを脱せるのか?

 

やはり、『自分はここに居て良いんだ』とか、『俺にはこんな仲間たちがいる』と感じることがその要であろう

 

こういった気持ちを他者からもらうこと。それが『承認』というものである。

 

心理学のチマチマした話は割愛するが、悩んでいるときほど、『他者』の力を借りるのが大切だと、強く思う。

 

『自分が嫌いな人』ではなく、『付き合ってくれる人』に焦点を合わせる。実はこれ、簡単に聞こえてかなり難しい。

 

ただ意識が難しければ、そういう環境に飛び込めば良いだけである。

 

集団生活の場であぶれた人たちが、同志の集うネットに入り浸るのも、ある種この『承認欲求』がそうさせるのかなと思う。

 

さて。

 

以下一応、『承認』されてる感を得るための具体的な心構えを述べる。

 

『承認』されてる感を得るために。

 

まず、自分の悩みをぶちまけるべきである。一方的になったら考え物だが、まずは辛いと思う要素を言葉にするのが大切だ。

 

それに対し、意見をもらう。実はこれで問題ない。話を聞いてもらえたこと以前に、それを口にしただけで心はかなり軽くなる

 

実際、僕の悩みは専門色が強すぎて、的を射たコメントはなかなかもらえない。でも、話すだけで僕自身はスッキリだ。

 

後は楽しい話をしておしまい。お通夜みたいな空気はお互いウンザリである。

 

―ということで、実は『承認』される感を得るために必要なのは、ただ友達を集めて場を設けることだけである。

 

相手に『承認』してる感を与えるための話なんかは別問題なので、今回は省く。

 

終わりに。

 

取り急ぎ今日伝えたかったのは、『悩みの底で苦しい時の救いは、【他者からの承認】にあるよ』という点である。

 

これに気付いたのは、結構メンタルがぼこぼこにされた後、しばらく悩みが消えなかったときである。

 

その後職場の人とご飯を食べながら話をしたのだが・・

 

大げさに言えば【否定された自分の存在意義】を【承認してくれた】と感じることができた。

 

で、結果穏やかな気持ちになって今に至る、という話。

 

(実は最近15時間近くの労働が続いていて結構イライラしているのだが、それはネガティブとは別の話)

 

ということで、独りで抱え込むよりは、誰かと遊んで霧散しようという月並みなオチで、今日は〆とする。