きっと、尋常じゃないまでの精神の疲労と、自分らしさの喪失だ。それらは、一時期僕が苦しんでいたものである。
ーさて。最近、この本に熱狂していた。
毎日(といっても3日ほど)100Pずつ読み進め、自分の理解が追い付かなかったところは何度でも復習した。
一つ、また一つと、僕自身のコンプレックスの正体が暴かれていく感覚。やはりこちらも良著である。
だが今日記事を書くのは、それに関する読書感想文をしたためたいからではない。
どう考えても、『真面目さだけを突き詰めた先』に、幸福がないことを伝えるためである。
ということで今日は、『真面目に頑張ること』だけが己の強みだと考えている人に向けて、私見を論じてみようと思う。
クソ真面目の定義とは?
クソ真面目な性格には、大体以下のような特徴がある。
①他者のリクエストを優先する。
②滅私奉公という言葉が尊く聞こえる。
③褒めてもらうことが生きがいに近い。
④何事にも手を抜かない。
『クソ真面目』とは簡単に言えば、『自分より他者貢献を徹底して優先する!』という生き方と言える。
自分の仕事を抱えていても、手伝ってと言われれば断れない人、とかがそれに近いかなと。
―ではなぜこういう定義を述べたのか?実は、その裏には色々と厄介な心理が隠れているからである。
それらを知ったとき、僕自身結構心に矢が刺さるかのような衝撃を受けたので、以下つらつらとご紹介。
クソ真面目の裏に潜むもの。
①他者のリクエストを優先する。≒②滅私奉公という言葉が尊く聞こえる。
この2つはほぼ同義であり、その裏に潜むものは、『嫌われることへの恐怖』であるという。確かに。
本当は頼まれごとを断るくらいで怒る人間など、付き合う必要はないのだが・・。
その程度の人でも嫌われることを恐れるあまり、自分を殺してタスクを引き受けるのは、なるほど危険な響きである。
クソ真面目気質は人は、その根っこに、無意識下で『嫌われることへの恐怖』を抱えている可能性がある、ということを覚えておこう。
③褒めてもらうことが生きがいに近い。
先の本に、「『他者からの承認』を求める人は、自分の人生を生きられない」とあった。衝撃的なフレーズだ。
これはなぜだろうか。人に認められて、いい気にならない人などほぼいないのに・・・。
実はここには厄介な話が続く。基本、人からの承認による喜びは継続しないのだ。
そして喜びが覚めれば、再びそれを求めて、『人が求める自分』を演じ、『褒めてもらうために』行動を繰り返す。
さながら、アル中が酒を求め続けるプロセスにそっくりである。『依存』を育むという流れは、酒でも承認でも似たようなものっぽい。
褒めてもらいたいがためにクソ真面目を貫く人は、自分の人生を生きられないのだ。怖っ。
④何事にも手を抜かない。
何事にも手を抜かないという行動が、『自分がそう決めたから』という信念から出ていれば素晴らしい。
だが、『手を抜いたら他者に怒られる、嫌われる』という恐れを抱いていれば話は別だ。
やっているとわかるが、手を抜かないと疲れがたまったり、逆に処理できる仕事が減ったりと、万事良いこととは限らないのだ。
しかも行動理念が『恐怖』から出ていると猶更だ。下手すれば鬱病に突っ込む。真面目な性格の人がそうなりがちな理由も、少しわかる気がする。
―ということで、『クソ真面目』気質の人は十把一絡げにそうとは言わないが、『他者に嫌われるのを恐れている』気質の人が多い。
また、『自分に自信を持っていない』ことも多い。そしてこの2つは密接にリンクする。
『こんな俺など、付加価値が無ければ誰も相手してくれない!』という恐怖。僕は正直、心の底から理解することができる。
つまり【恐怖】をベースとした『クソ真面目』の延長にあるのは、『他者の人生を生きる自分』や『極端な疲労』、『自信の喪失』なのだ。
自分の真面目さに拠って立つ何かがある人は、冷静に見つめなおしてほしい。
この気質は『積極的な他者へのコミット』からきているのか、『嫌われたくないが故の行動』からきているのか。
もし後者なら、考え方を少し転換しないと、いずれ疲れ果てて燃え尽きる可能性もある。
ただ前者でも、手を抜けないという義務を自分に課し続ける人生に変わりはない。そんなゆとりがない状態、僕は手放しに称賛できない。
改めて『クソ真面目』な人に伝えたいが、それを極めても真の幸福はなさそうである。
僕は30年近くその気質を拠り所として頑張ってきたが・・疲れが先立ち、手に入れた成果が浮かんでこない。
『人のためだけを考え行動する』ことの限界を感じているところだ。-では、これからどうすればいいのか?
―ここから先の話は、実は僕もまだ咀嚼しきれていない。だが、そこにいずれ到達したいと思っている。以下、その話。
『自分を愛する適当』
僕が最終的に目指すのは、『他者からしかもらえないと考えているもの』を、『自分で満たせる人間』だ。
例えば、あるタスクを頑張って、それを完遂したとき。これに対し、特別褒められなかったとしよう。
他者評価に依存していると、『承認』が満たされないため、色々不満を抱くことになる。
『なぜ褒めてくれないんだ・・』『まだ頑張りが足りないのか・・』とかそんな具合。不健康極まりないではないか。
それを、『ま、俺は頑張ったし』と、それを自分で満たせれば強い。僕はそうありたい。
自分に優しいのは甘さではなく強さ。今は正直、そう思う。
(ちなみにこれは『セルフコンパッション』と言われ、よくわからない自信なんてのより大切なのでは?と言われている感覚でもある)
拠って立つものが無くても、あるがままの自分を受け入れること。
難易度が極めて高い話であることは重々承知だが、多分僕にとっての幸福はその先にある。
他者への貢献は続けるが、その貢献しているという感覚だけで満足する。そのためには、自信より自分を許す力の方が確かに大切そうである。
終わりに。
『クソ真面目』という俗的なテーマから始まり、結構哲学的あるいは心理学的なお話に突っ込んでしまった。
他者と関わらなければこの社会では生きていけない。だから自分を殺して他者の理想を追い求める。
そうして繋がりを得ることで疲れ果てようと、それを失う恐怖が勝る。ゆえに、このループから抜け出せない・・・。
『クソ真面目』の漆黒の闇を垣間見た気がする。皆様はどうだろうか。
自分の存在価値を『真面目さ』に置くことなかれ。少なくともそれだけに置くのは危険である。
己が居てもいい理由は、他者に認められない限り存在しないとか、唾棄すべき思考である。くだらない。
ここに書いたことが、少しでも皆様の洗脳を解く契機になることを祈りながら、ここで終わりにしようと思う。
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