僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

「ネガティブ」で片づけず、自分の観察を続けたい。

『日本における成功モデル』を受け入れられなかった男の告白。

僕は平成3年生まれである。義務教育が始まったとき、使える技術も価値観も、時代はまだ昭和の延長線上という具合だった。

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情報媒体はテレビと雑誌と新聞くらいで、娯楽は友達との野外活動かスーパーファミコン、あるいはゲームボーイという感じだ。古き良き時代である。

 

勿論個人が情報を発信する土台は全然整っておらず、コミュニティも非常に限定的で小規模だった。すると何が起こるのか?

 

『理想の生き方』が小さい頃から刷り込まれ、それだけを目指すことに抵抗がなくなっていくのだ。まあ、外の世界を知ることがないので、そうなりますわな。

 

そしてそれから逸脱しそうになる度、大人から釘を刺されるようになる。ある時は家で、またある時は学校で。

 

僕は、結婚しないとダメだと教わった。いい学校に行かないとダメだと教わった。大人の言うことは聞けと言われた。授業は黙って聞けと言われた。

 

スポーツも出来た方が良いと言われた。何かができないのは努力不足なんだから、無条件で頑張れと言われた。好きなことよりすべきことを優先しろと言われた。

 

お金は稼げば稼ぐだけいいと言われた。使う、使わないは関係なく、絶対に英語は習得しないとダメだと教わった。

 

以来20年以上掲げることになる僕の人生の『正解』とは、思春期に入る前から他人にずっと刷り込まれた『成功モデル』。つまり、みんなとおなじゆめ、なのだ。

 

―30歳を前にした今、人生をよく振り返るようになっている。時たまある訃報に際し、悲しむより前に、自分のそれが有限であることに意識が向くようになったためだ。

 

あの時求められた人間に、僕は至っているのか?何度も自問してみたが、ここ最近その答えがついに固まった。

 

幼いころに刷り込まれた『正解』のほとんどは、僕にとっては『不正解』である。

 

僕は僕オリジナルの『幸福』はまだ見つけていないけど、『不幸』の定義はハッキリと捉えている。つまりそれらは、誰がなんと言おうと、僕の人生にとって不要なモノだ。

 

僕は正直日本における成功モデルから完全に逸脱した。でも、今が人生で一番楽しいし、何より強く自由を感じている。しかも、不安はそこまで強くない。

 

と言うことで今日は久しぶりに、『闇サイド全振り』の記事を書いてみようと思う。

 

 

『成功モデルに対して努力をしない』≒『落伍者』

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まず、僕は独身で彼女はいない。何なら異性の友達もほぼいない。年収も一番税金が安い層だし、未だに安いアパートでつつましく暮らしている。

 

スポーツは苦手で、かつそんなに好きでもない。高級車など夢のまた夢であり、比較的得意な勉強も全国レベルで見れば中の中である。

 

・・・もし僕がこのステータスのまま昭和や平成にタイムスリップすれば、まず注目されることのない落伍者として扱われるだろうな、と。

 

世間が求める成功モデルにかすりもしていない。そして3Kが声高に喧伝されていた時代だ。僕は男として、人として、無価値に等しい。

 

僕は自分が『刷り込まれた正解』に対し全然近付けていないことに、大学進学時からハッキリと悩むようになった。試行錯誤を繰り返し、本心を捻じ曲げ努力した。

 

この時期の恩恵は、実は無くもない。例えば僕は人に言わせれば『理不尽』なことを、『自然』なこととして捉える思考のクセがある

 

簡単に言えば、『あれやっとけ』という命令に対し、『ま、部下だからねぇ』という理由を即座にくっつけて、そして納得するということだ。ザ・社畜

 

この思考プロセスは、この大学生時代に養われたものだ。僕は自分の心の声を無視するのが大得意である。(それのせいでつい最近まで苦労することもあったけれど)

 

そうやって恋愛だ高学歴だ資格だ就職試験だなんだと全てに手を出し、努力し、自分を殺し、頑張り、心が折れて、電気のヒモで首つりの輪っかを作り・・・・

 

20代前半は何度も書いているように、愛おしいほど不器用で真っすぐだった。無知ゆえにできた努力。知った今なら放棄する労力なのだけれど。

 

そして、自分が落伍しているのではなく、『そもそも成功モデルの方が合っていないのでは?』という疑問を持ったのは、20代を折り返してからのことであった。

 

可視化されたマイノリティの人生。

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契機は本当に偶然だった。YouTubeの設定が何故か変わり、動画の再生ボタンを押さなくても無音で冒頭が始まるようになったことである。

 

白状すれば、僕はYouTuberの類が当時苦手であり、はしゃいでるだけの動画を観てどうするんだ・・みたいな斜に構えた目線で彼らを捉えていた。

 

しかし、勝手に始まる動画を観て驚いた。無音でも伝わるくらい楽しそうだったからだ。

 

なぜ彼らはこんなにも楽しそうなんだ?気になって何本も観て、何人もフォローした。

 

そして僕はそれを通じ、生き様も個人哲学も千差万別という当たり前の事実を、ここになってついに実感できたのだ。

 

その中にはマイノリティとされる人もいた。LGBTの公言というのもあったが、僕と同じく『旧来の成功モデルに疑問を抱えた人』もそこに含まれている。

 

彼ら彼女らは、従来の価値観から逸脱しつつも、自分なりに納得した生き方を完全に体現していた。驚いた。成功モデルを追いかけない成功。僕は心が躍った

 

そこで知ったアドバイスの1つに、『他人のモノサシ』という言葉がある。他の人のモチベーションの原動力になるものを聞いて、それを自分で試すのだ。

 

―これだけなら、今まで僕がやってきた『言われた成功モデルを無条件に信じること』と全く同じである。しかし、そこからの目線が僕には完全に欠けていた。

 

『自分はそれで頑張りぬけるのか?』

 

つまり、嘘偽りない自分の本心と、その後で向き合うことが絶対必要だったのだ。例えば、ある人はモテるために仕事を頑張りぬけるとする。

 

だが、自分はそれだとイマイチ乗れないとしたら、その価値観は自分にとって合わないモノという話になる。それだけだ。

 

だが僕は、『良いとされる価値観』は絶対であり、それに合わない自分が悪という"価値観"を何年も抱き続けてきた結果、自分の本心を完全に見失ってしまっていた

 

色々な人が十人十色の楽しい人生を送っている様子を見て、僕はずいぶんと久しぶりにそれに気づいたというのが、実は2020年の話なのである。

 

今はまだ、完全に己の『従順さ』を制御しきれてはいない。他者との相違や衝突は、怖いというより、選択肢に無いと言った方が正確。

 

そこを『本当か?』と粘り強く問いかけ続け、少しずつ『じぶん』の考え方を探り、ゆくゆくは発見する。30歳まであと8ヶ月なのだが、それには間に合うと良いな。

 

僕は日本における成功モデルをついに受け入れられなかった。結婚はしたくないし、高級車も興味無ければ、収入より休日の方が欲しい。

 

やはり、可能性がいっぱいある楽園のような未来や自分を描くのは、僕の性に全然マッチしないようだ。

 

『絶対いや』なものを捨てることで、無限に見える選択肢が絞られていく。『じぶん』を探すのはそっちの方が早くて正確だと思えてならない。

 

僕は30歳にかけて、今以上に『可能性』を切り捨てて身軽になることを目標にしていく所存である。

 

終わりに。

 

僕はテンプレな『成功』になじめず、それでも誤魔化し続けてここまできた。実に30年余り、決して短くない、むしろ長い期間である。

 

どの方角に進んでも袋小路にハマるような感覚を抱いてきたが、撤退が正解だったというのは意外だ。この目線、頑張り屋さんほど綺麗に抜け落ちていく。

 

2020年は『捨てる年』。では、2021年はどうなるだろう?―これは特に定めず、目の前のことにとりあえずハマってみて、後で検証する風にしようと考えている。

 

行き当たりばったり上等。かりそめの目標が消えた今、何を掲げようと、何を目指そうと、僕は自由なのだ。

 

尻切れトンボだが、今日はそんな宣言でございました。

 

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