ひっさしぶりにクソ残業しました。ただし大きなヤマを越えることができたので、今日は2週間ぶりに飲んでやります。中元です。
突然なんだという話だが、僕はどうやら承認欲求が生まれつき(いや、育ちの影響かな?)強めだ。
自分で汗をかきましょう。
手柄は人にあげましょう。
そしてそれを忘れましょう。
(日本テレビ元会長・氏家薺一郎)
―この言葉が好きだと標榜しながら、自分が【手柄】と思ったことを周りの人がスルーしたりさりげなく持ってったりすると、ストレスがかなり溜まっていく。
だが、認知されるための努力は、自己顕示欲のみっともない誇示にも思えるため、それを採ることも憚られる。
誰からも肯定されず、自分も自分を肯定できず。
せめて後者を何とかできれば、まだ健全に生きられそうなのにな。そう思って、最近は「ある方々」の胸の内をずっと勉強し続けている。
それは、経営者だ。その方々の一喜一憂を、文章やインタビューを通じて読んでいくと、自分が間違っている部分も、逆に間違っていない部分も、よくわかってくる。
今日はそんなお話をしてみる。
「経営者の孤独は絶対にわからない」
そもそもなぜ、僕が経営者の生き方というのに注目したか? それは、かつて本で、「経営者の孤独は絶対にわからない」という旨の本を読んだためだ。
成功すれば嫉妬されたり、運が良かったと片付けられたり。しかし失敗すれば、これでもかと内外から批難され、方々で叩かれるのみならず、最悪倒産してしまう。
例えどんな言葉を投げられようと、淡々と結果を積み上げていく。自分の勝負したいところで勝負はしない。洗面器から最初に顔を上げたヤツが負ける。
・・・昔、本当に社会をロクすっぽ知らず、大した結果も出さず、注目もされなかった頃は気にも留めなかった言葉たちが、今はサクサクと心を刺す。
成功を収めた人たちは、そこだけ取り出して周りから見れば華々しいが、その裏には冷厳な孤独を抱えている。
また、「褒められることは嬉しくない」という過激なメッセージも読んだことがある。それらは所詮、勝者にまだ余裕があるというサインの言葉だから、と。
本気で勝ちたいと思った相手に勝とうというときは、「批難」が飛んでくるものなのだという。それは崩れ落ちる者の悲鳴に他ならないと、結んであった。
ー結果を出したら、褒められて初めていっちょ上がりという僕のみみっちい哲学が、それこそ崩れ落ちていくような感覚。
成果を誰からも認めてもらえないと悩んでいる場合、そもそも誰からも認められないのが前提に近い経営者の孤独を読むことは、非常に大きな勉強になる。
そしてこれらの本には、結果を出してからの身の振り方も、きちんと書き添えられていた。だから今は、愚直にそれらを実践中だ。
続いてはそれらについて書いていこう。
「ちやほやされたら罠だと思え」
それなりに結果を出すと、周りがヨイショしてくるのが世の常だという。
僕は最近、それなりに良い数値を残したとはいえ、それはあくまで一組織内での話なので流石にそういうのは無いけれど・・・。
こういうのに浮かれるのはマジ二流という風なメッセージが、どの人の本にも、インタビューにも、何ならブログにも書いてあるのは、偶然ではなくすごい話だと思う。
舞い上がって、自分が格上になった!と有頂天になると、足元をひょいと救われて、最悪人も金も成果も能力も、全てを奪われることに繋がることもあるらしい。
中には最初からそれを狙っておべっかを使うサイコな人もいるという。これを考えれば、他者評価に依存し、それの中毒になることは、非常に危険なのだと自戒できる。
ちなみに斎藤一人さんは、この状態を、「神様が一時的に持ち上げているだけ」と表現している。
持ち上げて支えてくれている間は、言い換えれば立場に不相応な状態という意味。相当高所のところで、神様があなたを高い高いしているのを想像してほしい。
つまり、そのままだと下が完全に奈落の外状態。ふんぞり返る暇があったら、勉強して仕事して努力して、足場なりネットなりを作らないと、極めてマズい。
それを怠ると、いつの日か神様がパッと手を離して、超高所から叩きつけられるようなダメージを負う。度が過ぎると、再起不能になっちゃう。
わかり易いが、かなり怖い話でもある。参考にされたし。
「自分を労うのは正義である。」
最後に、これまた不思議と共通して書かれていたことを紹介したい。それは、【自分の労い方】である。
他者評価への依存を厳しく批難する著者も、自分を労うことは積極的に肯定されている印象だった。
むしろ周りが認めないことを前提とする世界に居るのなら、自分が自分を認めないと流石に疲れ果ててしまうという話だろう。
美味しいものを食べる、クラッチを切って旅行に行く、高いワインを開ける。その全てが工夫すれば僕らにも何とかなりそうなのが、救いであった。
だから今日、僕は3000円くらいの予算で美味しい料理を作って、がつがつ食うのを自分への褒美にしようと思う。
やや高くつくように感じるが、同じ”美味しいものを食う”という状況も、高級レストランに行けば数倍以上の値段になる。ヘンなところはしたたかなのだ。
自分が自分を認める。そしてそれに満足する。
これを習得できたら、人生は相当楽になるだろうなと思えて仕方ない。
終わりに。
ということで、僕が僕なりに僕を肯定する方法を、今日は書いてみた。それくらい、今は努力と成果に対する反応の鈍さに、少し寂しさを感じているところだ。
しかしこれも成長痛のようなモノだと納得することにする。毎度毎度褒められていた頃より、今の方が成長しているのは間違いないからだ。人見知りのままなのにね。
あぁ、スッキリした。では今日はこの辺で。