学業が多忙になってきた講師から退職希望を受け取る際、ついに「俺もそこまで長くは、今の状況を続けないんだよな」という思いが湧き始めました。中元です。
はい。前の記事では、"イワカン"を起点として、自分の胸の内を徹底的に言葉にしてみた。
hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com
そこから考えていくと、「自分は何をしている時間が好きなのか?」という根源的な問いが浮かんできた。だからそこを掘り下げてみると、また新たな疑問が浮かんだ。
それは、「逆に、自分は何をしている時間が嫌いなのか?」だ。向き合ったことがありそうでなかった、あまりにも単純なこの2つの問い。
しかし取り組んでみると、そんなに易しい話ではなかった。無意識に意識を向けることは、とても難しい。だから何千年も同じテーマで、人は考察を深めたのだと思う。
だが、もう踏ん張るしかないと、僕の知恵の及ぶ範囲で、徹底して考え抜いてやった。
すると、ついに自分の核にかなり近いところまで至ることができた。そんな手応えを得ることができている。
これが、お読みいただいている方にも通じる、普遍的なヒントになっているかはわからないが・・・。
僕は幸福を考えても不幸を考えても、同じ答えに行きついた。そんなプロセスを、つらつらと書き殴ってみる。
幸福を覚える時間を言語化する。
最近、自分にとっての【楽しさ】のヒントになり得る、ある出来事があった。それは、仕事をしている間に、偶発的に起こった。
本当に一瞬で時間が過ぎ去ったかのように、気付けば8時間も働いていたのだ。没頭していたら時が流れるのを忘れるというが、まさにそれだ。
疲労が強かったり、タフな案件を抱えていたりすると、自分自身の疲れに意識が向いたり、時間が経つのが遅くなったりするものだが、この日はそれが全くなかった。
いわば、非常に充実した時間だったと思う。この感覚を抱くのはいつ以来かわからない程なのだが、何があったから、こんなに濃い一日になったのだろう。
思いつく仮説は、僕が呻吟しながら作った説明が、相互のやり取りを通じて、結果生徒にしっかりとハマった一幕があったため、というものだ。
今日は難関校の入試の国語を扱ったのだが、テーマが身近だが文体が抽象的で、どう説明したものかとかなり骨が折れた。
だからある程度から先を、アドリブで行ってみることにした。僕も「わからない」部分を残したまま、賭けにはなるが、授業に入ったのだ。
わかる範囲の具体例を出して、反応をうかがい、質問を受けて、その疑問を取っ掛かりに別の観点で考えて、少しずつ答えに近付いていく。
結果それがうまく機能してくれて、僕も生徒も、思いもよらないところまで理解することができたという実感があった。この時間がたまらなく楽しかったということらしい。
―やはり僕は、自分が未知のことを勉強して知っていくこともそうなのだが、それを人に波及させることができた際に、幸せを感じる人間のひとりなようだ。
さらに言えば、知識を伝えた際に、聞いた側が新しい問いを思いついてくれたら、もっと僕は嬉しくなると、この問答を通じて気付くことができた。
それを解きほぐすことで、さらに学びを深めることができるからだ。そしてそれを成し遂げられたとき、喜びはさらに強まる。まるで今日のやり取りのように。
だからこそ、学びと発信がセットになったこの仕事が好きで、それに適応してるのかもしれない。
しかし一方それによって、より一層そのサイクルを行える環境作りをやってみたいという想いが、無視できない程に膨らんでいるのかもしれない。
観察。学習。問答。これら全ての楽しさを共有することで、周りの人だけじゃなく、僕自身ももっと、新しい観点や問いに出会いたい。
これが達成される場所を想像してみると、やはりすごくワクワクするような気持ちになってきた。言語化できていなかった、僕の本性が、遂に見えてきた。
この類の時間を狙って増やすことができれば、僕はもしかしたら、講師という立場そのままで、少し下火になりつつある有意義さを再び感じられるかもしれない。
ただし当然、感じられないかもしれない。自分に裁量が無い立場で満足することがどうしてもできないというもどかしさが、楽しさを超えるかもしれないからだ。
―ここばかりは頭で考えてもわからないので、とっとと実験して、さっさとデータを集めた方がいいのだろう。早速今日から試してみることとする。
さて。今日の仕事を通じて得た気付き。やはり僕は、学び、発見し、共有することが心の底から好きで、それらを抑制されることが心の底から嫌いなのだ。
自分の中に湧いてくる感情や、他者のネガティブな反応さえも、好奇心や観察の対象にしたくなる。僕は思った以上に、勉強が好きなようなのだ。
「本当の自分なんてものはどこにもいない」というのは僕自身明確に悟っているが、同時に、自分が熱狂できるものは必ず言葉にできるはずだとも信じている。
そのための時間は、20代の頭とかで取っておくべきことだという話は、今ならわかる。だから就活の際、あそこまで皆が横一列で呻吟するのだろう。
ただ、僕にとっては、31歳になった今になって初めて、やる意味ができたということだ。やらなかったことを後悔するほど馬鹿馬鹿しい話もない。
好きな時間、楽しかった時間を分析することで、自分の価値観が浮き彫りになる。ただし、その気分が続いているうちに、言葉に残しておけば、だが。
皆様も、「たのしい!」と思う原体験があったら、日記でもVLOGでもなんでもいいので、自分の感情・感覚をきちんと残してくことを推奨する。
特に20代・30代であれば尚更だ。自分のことを最速で理解するためにも、こういう自分が好きな時間にアンテナを張って、言葉にする習慣をつけてみてほしい。
強い不安と寂しさを抱く存在。その裏に、自分の価値観が隠れている。
自分の胸の内を言葉にしていく中で、どうしても要領を得なかった部分があった。考えても考えても、こればかりは喜怒哀楽のラベリングすらできていなかったが・・。
今回この記事を通じて、遂に言葉にすることへ成功した。以下少々長くなるが、そこに至るまでの思考の流れを、割愛することなく書きなぐる。
僕が言葉にできていなかったのは、自己愛が強い人へ抱く感情だ。自分の能力を高く自己評価し、言われずとも権限を拡大していくような言動を常日頃から重ねる人。
だが、抜け漏れする仕事の量は少なくない。フォロー無しではボヤ騒ぎになる案件も多い。そんな当人は、自分が今の立場より上に行って然るべきだと頑なに信じている。
実をいうと、その人は仕事に対し徹底して手を抜いている姿勢がバレて、降格寸前までいったのだが・・。
心を入れ替えた宣言をして、一生懸命仕事をしているように振舞うようになり、いつのまにかその話は立ち消えた。だが、僕から見える姿は、それからは遠い。
掃除や雑用といった、下っ端がやりそうなことは徹底してやらない。人のミスは言及し、自分のミスはスルーする。
そもそも上司は保守的なものだと言われるが、ここまでテンプレ像通りだと、狙って演じているのかという気さえするほど、いわば清々しい。
しかし、こういう人に、そしてこの状況に対して抱く感情こそ、実は正解という実感を伴った言葉にできていなかったものなのだ。
普通であれば、強い憤り10割という風になるだろうが、僕は怒りをさほど感じてはいなかった。比率で言えば1割程である。つまり、9割の感情が説明不可能だったのだ。
ダークマターのように、まったく掴みどころのない何かが心に詰まっている。一体これは何なのかと、ずっと不思議に思っていた。
しかし、謎は解けた。今はどうやら、【強い不安と寂しさ】がその正体だと考えている。
きっかけは、【不安】という感情とは、自分の大事な何かが脅かされるという意識に注意が向いているということだと、本で読んだことだ。
では、こういった自己愛が強い人による状況を是とすることで脅かされるものは、何かあるのかを考えてみた。するとすぐに閃いた。僕の価値観である。
僕は、ミスはみんなで共有して解決し、手柄は組織に帰属させながらも、誰が何をした結果なのかを明確にするべきだと考えている。
各々が課題を発見し、それによって経営にダメージが入るとかじゃない限りは、「やってみたらどうだろう?」という親切は推奨したらいい。
リーダーの仕事は、チームで成果を生むことに置かれる。やるといったことはやる。仕事に貴賤は無し、雑用を軽んじてはならない。
青臭いが、これこそが僕の考え方だ。そしてこれと対極な思考をするのが、自己愛の強い方々と、彼ら彼女らが率いる組織である。
実際、先述の僕の考え方をひっくり返すと、きれいに自己愛型リーダーの思考に早変わりする。
手柄はリーダーに帰属させ、ミスはやった本人が責任を取る。勝手なことはしてはいけないが、自分の頭で考えるべきだ。
リーダーの仕事は、部下を使って己の利益を最大限にすることであり、部下はそのために存在する。当然、雑用は自分の仕事ではない。
・・・現状はここまで極端ではないが、時折近いところまで行くことはある。そして今の組織図では、その人が長なので、会社がこの考え方を是としていることとなる。
繰り返しになるが、自己愛の人に僕が強く不安を抱く理由は、もしその人が認められたら、僕が認められる可能性が消えるためだ。
そして得てして、リーダーは自己愛の強さを好意的に解釈することで選ばれることが多い。そんな身も蓋もない現実に、僕は寂しさも覚えるのだ。
僕は組織に貢献したい。そのためにもっと裁量を得て、自分が責任をもって主体的に仕事をしたい。
しかしどうやら、そうすることは求められていない。明言されてこそいないが、目の前の現実が僕のメタにそう訴えている。不安だ。そして、寂しい話だ。
自己愛の強い分人を持つ人が評価されることは、同時に僕の否定になる。そして、この否定を拒否するには、取るべき選択肢はたった2つになる。
自分を殺してその人に尽くすか、あるいはその支配下から抜けてしまうか、だ。
僕の場合は後者のモチベーションが圧倒的に強かった。だから【独立】を真剣に考えるに至ったのだ。
全ての道はローマに通ず、ではないが、僕の決断は、どこから思考を出発しても辿り着くものらしい。これについては、心底安心した。
―自分が強い不安や寂しさを抱く存在は、皆様の中にあるだろうか。もしかしたらそういった存在は、あなたの価値観の対極に位置することがその理由かもしれない。
だからこそ、そういった人々や環境が肯定されることが怖いのだ。なぜなら、それは同時に、あなたの否定に繋がるためである。
もしかしたら、この部分に、あなたの価値観の芯が隠れているかもしれない。
快い時間ではないことは確かだが、何か拾えるものがあるかもしれない闇ではある。一度勇気を出して、覗いてみてはどうだろうか。
―とりあえず、今回の内省はこの辺で。