次年度のことを人に聞かれた際、無意識に明言を避けている自分に気付いた中元です。「今とは異なる」ということだけは確実なんですがね。
はい。ここ最近、我ながら少しメンタルのブレが激しい。主に苛立ちがその原因なのだが、では何が苛立ちを起こしているかというと、要因が複雑で、一言では言えない。
観察を阻害する要因の内、感情が思い切り歪んでいる状態だ。これが続くと、冷静に世の中や状況を見つめることができなくなり、どこかで判断を誤る気がする。
例えば「怒り」とは攻撃性が高まっている状態なので、人からのアドバイスを「非難」と受け取ってしまう可能性がある。これはマズい。
心がブレたとき、それを自覚することは大事だ。だがもっと大切なのは、どのようにして素早く元の状態へ戻していくかという手を、普段から準備しておくことだと思う。
人によっては、それは何かしらのサプリだったり、あるいは徹底的に運動へ打ち込むことだったり、様々だと思う。実際どちらも、効果的だと言われる。
ただ僕に関して、最近はある種、このネガティブをいい観察の機会だと解釈を変えている。あえて自分の内面に徹底的に向き合って、その正体を言葉にする。
そうすることが、長期的にみると、一番自分にとっての学びが多くなるのでは、と考えているためだ。
そして今はそのヒントとして、心をブレさせないプロの言葉を読み返し、何か今の自分に響く教えや考えは無いか、つぶさに調べている次第だ。
具体的には、棋士、雀士、仏教徒である。この人たちは全員、心をブレさせたらすぐに負ける世界に身を置いているか、内面を見つめることの達人か、だ。
そして彼らの言葉や思考を読んでいくと、やはりかなりの共通点があることに気が付いた。それこそが、心をブレさせないエッセンスに当たるのだろう。
そこで今日は、まだまだ解像度として荒すぎるのだが、心を安定させるプロが実践する行動や考え方について、僕なりにまとめてみる。
"心がブレる"の定義とは何か。
”心がブレる”と言われたら、どのような状態を想像されるだろうか。恐らく、「考え事があちこちへ飛ぶ、注意散漫な状態」を考えるのではなかろうか、と。
―実をいうと、彼らは心がブレることを、ネガティブなものへ意識が集中している状態と考えているようであった。言葉の意味とは、反対の印象である。
口にする言葉や考えていることがコロコロ変わるということではなく、逆に、怒りや悲しみ、不安といったネガティブな気持ちへ意識が向くことが、”ブレる”ことなのだ。
例えば、ミスの一手を打ったとする。ミスなのだから、不安になる。不安になれば、自分が負ける未来に意識が向き、現在の状況に向き合うことが困難になる。
あるいは、過去類似のケースで負けた記憶が想起され、そちらに意識が持っていかれることもあるだろう。いずれにせよ、心は今ここには存在しない。
こんな風に、心がブレるとは、思考の対象がコロコロ変わるのではなく、思考の時間軸がごちゃごちゃになるというのが本当のニュアンスのようだと言える。
さて。【心のブレ】が何を意味するのかが理解できると、同時に新たな問いが浮かぶ。「では、そういったブレに対して、どのような心構えや行動をすればいいのか?」
これについても、既に膨大な思索と仮説が、彼らによって言葉にされていた。しかも驚くべきことに、かなりの共通点がそこにみられた。
続いては、いよいよ確信に当たる方法と心構えについて、ガッツリまとめていきたいと思う。
問いかけで、今ここを向き直す。
その共通点とは、使うセリフに多少の差異こそあれど、自分への問いかけをきっかけにして、意識を現時点に引き戻すという方法だ。
ある人は、「桂馬を跳ねたらどんな手が来るか」と考えるというし、別の人は、「あぁ、うっかりした手を切っちゃったよ。じゃ、どうしようかな」と考えるという。
例えば皆様も、授業中に意識がふわっとしていた際、先生に急に当てられて、テロリストが学校に突入してくる妄想が中断した的な経験は無いだろうか。
意識が反れている状態から、今このときへ焦点を戻すということは、この流れに非常に似ている。それをセルフで行うための方法が、【問いかけ】なのだ。
「考え事を止めなければならない!」といくら念じても、考え事は絶対に止まらない。そうではなく、そこに向いた意識を"切る"ことが大切なのだ。
先生に質問された生徒のように、自分のメタによって自分へ質問をするのだ。この問いかけは、非常に効果の高い施策だと思う。
―ちなみに、この問いかけにもコツがある。自分を責めるようなセリフは、絶対に選ぶべきではないというものだ。
ただでさえネガティブに意識が向いているのに、追い打ちをかけるようなことを自分に言っても仕方がない。心から見れば、文字通り泣きっ面に蜂だ。
それよりは、「そんなものだ」と受け入れたり、「ではどうする?」と先の思考を促すような言葉を選ぶ方がいい。
かくいう僕は、「ではどうする?」「ちょうどいい機会だな」「そんなもんだな」「起きていることは全部正しい」といった言葉をよく問いかける。
参考にされたし。
結局すべては【諸行無常】。
ところで、たまたま出会った言葉ではあるのだが、仏教における【我】の考え方に思うところがあり、最近は色々な僧の言葉を読み込んでいる。
【我】という言葉を知らない人はいないだろうが、しかしその正体をうまく説明できる人もまた、ほとんど存在しないのではなかろうか。(僕もそうだが)
不思議なもので、棋士・雀士の方の言葉の中にも、【我】という語はよく登場する。ただし、ほとんどはネガティブな意味合いで使われている。
だからこそ、この言葉を紐解くことで、今の僕に染み入る新しい考え方が得られそうだという直感がある。
ただ、現時点では言葉を雑多にブラウジングしただけで、まだ腑に落とすところまではいっていない。もしかしたら、思い切り誤解している点もあるかもしれない。
そういうわけで、一旦頭の中の整理も兼ねて、調べた限りを書いておく。
まず、【我】という言葉はそもそも、「常に変化する存在」という意味であるとあった。不思議なもので、「確固たる自分」という意味は、ここに入っていないのだ。
そしてこの【我】を含む言葉と言えば、例えば【無我】とか【自我】が思い浮かんでくる。実はこれらの意味も、元々僕が考えていたものとは、結構異なっていた。
まず【無我】とは、「固定的な”我”など無いと、理解している状態」。僕はそんな風に解釈している。ちなみにその根拠は、ざっくり以下の通りだ。
この世にある事物はすべて、原因・条件が組み合わさった結果、存在している。そして万物は流転するのだから、独立不変な存在(≒我)はあり得ない。
なるほど、わかるような、わからないようなフレーズだ。ちょっと思い切って、たとえ話を使ってここを考えてみよう。
例えばあなたが、親しい友達と、カフェで軽食を楽しんでいたとする。その時のあなたは、恐らく非常に気楽な気持ちでいるのでは、と思う。
そして友人がお手洗いに立って中座した際、入れ替わりで、自分が苦手とする学校の先生が、偶然にもその店に入り、あなたに気付いて近づいてきたと想像してほしい。
恐らくあなたは、先ほどの気持ちとは打って変わって、一気に気が張り詰めるというか、言葉を選ばずに言えば不快感というか、その辺を抱くのではと思う。
―ここまでイメージしたうえで質問なのだが、くつろいだ自分と、緊張した自分、どちらが本当のあなただろうか?
・・・個人的には、そんなのは考えるだけ不毛だと思えてならない。どちらのあなたも、つまりはあなたなのだ、としか言いようが無いと思う。
世の中は全てが目まぐるしく変化しているため、原因や条件もコロコロと変化する。そして、誰と空間を同じくするかという前提が変わるだけでも、人格さえ変わる。
そんな世界で、確固たる不変の【自分】が存在することはあり得ない。どれか1つの雲を選び、それこそが理想と考え、他の雲全てを否定するような無意味さだ。
だから中には、【自我】という発想を、"ただの妄想"と切り捨てる人さえいた。最初は僕も極論だと思ったが、【無我】の考え方をなぞるうちに、なるほどと思えた。
今の自分が持つ感情も思考も、刹那的なものである。固執するだけ無駄なのだ。このことを理解することから、苦しみを逃れる道は始まるようだ。
確かに、自分にとって苦しい時期は、僕は確固たる【我】を求めて、もがいていたように思える。"あるがまま"という言葉の言わんとするところが、おぼろげに見えてきた。
苦しいときはそれを手放し、大きな目線で物事に向き合う。砂浜に打ち寄せる波ではなく、広大な大海原を見つめるように。
いつでも心を【中庸】にしておくことが、ある種環境が生む苦しみに対処する特効薬のものなのかもしれない。
・・・ちなみに、先ほどカフェの例を出したが、この考え方は、「私とは何か 「個人」から「分人」へ」という本で学んだ【分人】という観点を基にしている。
「本当の自分とは何か?」「本当のあの人の顔はどれか?」といった問題に悩んだ経験がある人には、非常に心が軽くなる考え方が書かれていると思う。
是非一読してみてほしい。
終わりに:「あそび」こそ大切なのかもしれない。
ここまで考えたとき、僕の心にふと浮かんだのは、「あそび」という言葉だ。辞書で引いてみると、自分が考えているのに近い意味が、確かにあった。
結構限定的な用法だと思うが、僕はこの考え方が気に入っている。僕は【無我】という言葉について、「テキトーに生きようぜ」という意味だとは思えないからだ。
例えば、独立したらどんな店舗を創りたいかといった未来までも、「万物流転だから考えてもしゃーねーでしょ」と否定するのは、あまりにも寂しい。
とはいえ、10年後の自分の像までガチガチに規定するのも息苦しい。近すぎず、遠すぎず。ちょうどいい時間軸で目標を作り続けることは、流石に必須だと思う。
だが、あまりにも細かく決めていくのは、避けようと思う。つまり、"あそび"を持たせるのだ。【我】に固執せず、変化を前提に、対応できる余白を用意しておく。
RPGで言うならば、次はどのボスを倒すか、どの町に行くか程度の練り上げで十分という話だ。
その途上では何匹のモンスターを狩り、武器は絶対にこれを揃えるというところまで決めると、ゲームとして面白くないように思えるように。
―ここでまた、表題の話に繋がった。棋士・雀士・仏教徒の方々も、徹底的に脇目も振らず、たった一つのことだけ追うことは、別に推奨していないのだ。
むしろ、真面目過ぎると本質を見失うとか、息が詰まるとか、柔軟な発想を殺すとか、変化に適応できなくなるとか、そういった警鐘を鳴らしているくらいだ。
ゴールは決めるし手段も一応決めるけど、刻一刻と状況は変化するんだから、それに合わせて変えられる部分も用意する。
これくらいの鷹揚さ、あるいは適当さくらいがちょうどいいのかもしれない。真面目過ぎると人生が楽しくないという言葉、自分の中で意味合いが更新されたなー。
・・ということで、我ながら難解なことを言葉足らずに書いたと思うけど、今日はこの辺で。