贈り物の扱いは、思うになかなかに難しい。例えば差し入れ程度のお土産ならば、特に深読みせず、無邪気に受け取って差し支えないと思う。
しかし、金銭となったら話は別だ。”もらっちゃった”と言い切るには重いギフトであり、その受け取りについてはかなり気を遣う人が多いと、本で何度も読んできた。
そんな僕が、ついにそれを受け取るという場面があった。完全にご厚意とわかる言葉が添えられていたが、つまりマネーなので、慎重に考える必要が出る。
贈り物を取っ掛かりとして、狙った”ターゲット”と関係を築こうとするグレーゾーンの方々の例もあることから、大変慎重になる必要は、絶対にある。あるのだが・・。
とはいえ、そういう猜疑心を全開にして、贈り物全てを突っ返していいものだろうか。感謝だろうと、お金であれば無条件で拒否とか、それはそれで失礼ではないだろうか。
考えれば考えるほど、違う意味で難しい。ただ、こういう問答を自分で抱え込むのもアホくさいので、とりあえず上司に相談したところ、「上に言え」とのことだった。
そしてさらに上の方に相談したところ、相手の顔を立てて、かつこっちも一方的に受け取るばかりでない丁度いい落としどころが出てきた。
その上で、どういう対応をするかも話し合い、決定し、あとはその通りに僕が動いて報告していっちょ上がり、ということになった。
さてさて。今日の記事は、実を言うと、「お金を受け取る際は気を付けようね」という類の話ではない。今回の件を通じて感じた、【責任】という言葉についてである。
・・さっきみたいな受け流しは、ある意味予想していた流れではあったので、特に感情は揺さぶられなかった。ただ、その際に言われたセリフがちょっと引っ掛かっている。
「責任はすぐ、然るべき人に回せ。お前が判断したら、お前の責任になるぞ。」
―言葉を選ばずに言えば、僕はこのセリフに、器の小ささを覚えた。責任をさながら時限爆弾のように解釈し、自分の手元で爆発させないことにだけ意識を向ける。
この価値観がチームに蔓延しようもんなら、かなり危険ではないか。全員が責任をなすりつけ合う有様など、想像するだけで血の気が引いてしまう。
―しかし逆に、そうならないためにどうすればいいか、その端緒すら僕は僕の中に持っていないことに気が付いた。今はただ、安全地帯から不満を吠えているだけだ。
だから、そこから転じて、望ましい情報共有の在り方について、少し事例を調べてみることにした。今日はそんな、謎目線のお話である。
【責任逃れ】は仕組みで防げるか?
中小企業もそうなのかは知らないが、基本的に上へ昇っていく人、世渡り上手な人は、非常に保身的で責任を逃れることが上手だと言われる。
この理由は簡単で、組織においては「実績があるかないか」よりも、「これまでに失敗をしてきたか否か」が強く問われるからである。いわば減点方式なのだ。
その実例と被害報告はネット上に溢れており、同時にその対処策はそこかしこで読むことができる。何なら、そういうテクニックに特化してまとめた本も存在する。
そこでもはや「基本」とされていた対策は、意地でも言質を取ることと、その人に責任は及ばないと担保してあげることだとあった。
例えば、サシで取り決めた話をMLで拡散して確認するとか、「最悪、僕の独断ということにしてください」と耳打ちするとか、だ。
器の小ささに合わせてこちらまでみみっちいことをしているようで少々腹が立つが、それが処世術の基本というのが、現代社会の実態らしい。
こういう事例を調べると、少し思うところがあった。こういった「責任を取るのが怖い人」への対応策とは、要するに不安を取り除き、安心・安全を担保することである。
これは、よくよく考えれば、被害者の自助努力に頼るべきものではないのではなかろうか。組織・会社が制度・仕組み・文化として作るべき項目の1つでは、と。
つまり、【責任逃れ】が横行する理由は、その人の価値観が歪んでいる側面も勿論あるが、組織の設計にも不十分な点があるため、ということでもある。
それなら、僕がコントロールできる部分も出てきそうな手応えがあるように思える。それに、そっちを考え抜く方が、絶対にマシだ。
これについては、まだまだ思考する材料が足りない。ということで一旦、色々な具体例を調べて、列挙する所から、諸々を開始してみようと思う。
リーダーは偉いのか?
・・・調べていく内に、抜擢する側・抜擢される側の両方にとって、耳が痛い話が次々とヒットした。
まず、責任感が無い人は、そもそもリーダーに据えてはならないと指摘する社長がいた。責任の所在を無くすことは、チームの崩壊の始まりとさえ書かれている。
かといって、責任感が強すぎても自滅したり、メンバーを必要以上に組織へ帰属させたりして、これもこれで空中分解を招くことになる、と。
Aという正解に聞こえる論があれば、Bというまた別の正解に聞こえる論がある。答えはどっちなのか。そういう袋小路に嵌りそうであった。
こういうときは、エポケーである。どちらかが正解で、どちらかが誤っているという判断を、一旦保留してしまうのだ。すると、すぐにCの考え方を閃いた。
この場合は、よくよく考えれば、どちらも言っている、共通する失敗事例のようなものにフォーカスした方が、まだ再現性がある学びが得られそうだと思った。
すると、どちらも強く危惧していたのは、コミュニケーションが発生していないチームになること、そしてその状態を放置することである。
そしてコミュニケーションを阻む最大の要因は、"あいまいさ"であった。言い換えれば、"わからないという不安"である。
不明瞭な責任の所在、言語化されていないルール、どこに地雷があるかわからない、人間的にとっつきにくいリーダーやメンバー。
そういった一つ一つの課題を放置すると、気付けば地下にびっしりと根を張るように、組織全体に不信が広がる。猜疑心を抱いた者同士で、意思疎通が図れるわけがない。
【わからない】ことが、行動を抑制する。逆に言えば、メンバーの行動に躊躇いがみえるとき、そこには【わからない】何かが存在している。
それをキャッチし、言葉にするなり制度を整えるなりして、取り除いていく。必要とあらば、話し合う場も設ける。都度改善・改良を促す役目を果たす人間は、確かに要る。
改善とは、ある種強権的にでも実行させねばならないものである。友達のような関係性で繋がったグループには、相容れない手段だと言える。少しずつ、何かが見えてきた。
そのために必要なのが、【立場の明確化】であり、さらにそれを推し進めるための具体的施策が、【部下と適切な距離を取ること】だとすれば、どうか。
僕が識学の中で、唯一腑に落とせていなかった点に、ようやく合点が行きそうになってきた。距離を取ることは、何も冷徹・冷血を意味しないのだ。
逆に、距離を詰めることが無条件でいいことだとはとても言えないだろう。例えば僕は、仕事関係ない飲み会に、わざわざ上司を呼びたいだろうか。
二つ返事で、嫌である。ならば、きっとそれと同じことを、僕は部下(この呼び方は嫌いなのだが)に思われる。そう思い込むくらいで丁度いい。
遊びたければ、社外に友達を作って、そっちと遊んでもらった方がいい。僕だってそうしたい。逆に息が詰まるからだ。(あと、社外に交友関係が無いとか、寂しい話だし)
こう考えれば、リーダーが組織を代表した存在であることも、どこか距離を置いたスタンスを維持することも、任務を果たすために必要なただの手段だとよくわかる。
リーダーは偉い。そう思っている人にリーダーを任せると危険。僕の中でまた一つ、悟りと覚悟を得た瞬間であった。
終わりに:「責任は俺が取る」
何度も書いていることだが、僕は「責任は俺が取る」という言葉が大嫌いである。だが最近は、大嫌いだからこそ、自分はそれを体現しようと思っている。
そのためには、例えば一目でリーダーっぽいとわかる身なりをするとか、デスクに座るとか、そういう自己演出も大切だよなと、そんなことを考えている。
「ブランドで飾るのはダサい」とか、「リーダーこそ質素な身なりで謙虚に振舞え」という教えもあるが、意外とそれらは、リーダー自身が発している言葉ではないものだ。
自己顕示欲の表れも少しはあるのだろうが、リーダーの中でも人望と畏怖を集める人たちは、身なりからして違う。オーラと形容してもいい。
その辺のオジサンのような見た目だと値踏みされると、本能的に気付いているのかもしれない。リーダーが一見わからないことのストレスを理解しているのかもしれない。
そういう事例を学ぶ度、まずは身なりからリーダーの感じを出そう、責任は俺が取るという表明をしようと、改めて誓った。
リーダー論、知識の勉強はある程度のところまで来た以上、あとは実践だな。とにかくそれである。
ということで今日はこの辺で。