「またかよ」的な話なのだが、僕は自分が多動性を持っているだろうと、ここ5年以上ずっと考えている。幼少期より、思い返せば人とは違った言動があった記憶もある。
だが最近、僕自身が抱える生き辛さを、より正確に言い表している言葉に出会った。それは、HSPだ。
それによれば、僕は人並み外れて感受性が強いことが、弱点かつ長所であると考えられるという。そう思うと、納得できる記憶や経験は、確かに多い。
例えば昔から、勝手に人の心中を慮ってとても疲れたり、その人のセリフ・声色・動作を深く考えて、その裏のメタを探ったりして勝手に疲れたり。
具体的なエピソードなど、それこそ病的なモノばかりに限定しても、両手の指の数で収まるかどうかである。よく31年も生きてこれたなと、感心する気持ちさえある。
ただし、HSPなのであれば、そもそも刺激が嫌いなのだから、僕は今以上に引きこもり、閉じこもり、内向的なことへ没頭しているはずだと言える。
しかしながら、僕は自分で言うのもなんだが、好奇心が強い。人に言わせれば精神年齢が9歳程度しかないという。
一体そのことと、感受性が異常に強すぎることは、どう折り合いを付ければいいのか。そんなことを思っていると、僕をより的確に表現する言葉を知った。
それは、HSS型HSPである。そしてそれについて学びを深めていく内に、僕は多動的なのではなく、こっちなのではと、半ば確信するに至っている。
ということで今日は、「アクセルを踏みながらブレーキを踏んでいる」言動や思考に振り回されている同志に向けて、僕が調べたことをまとめたいと思う。
またそれをヒントにした、この気質の活かし方についても、暫定的な方法(持論)を書いてみる。では以下、本題である。
HSS型HSPって、なに?
まずは本当にざっくりと、「HSS型HSP」とは何なのかを説明してみる。そのためにはまず、そもそも「HSP」とは何なのかを書いた方が良さそうだ。
知名度が高いのでご存じかもしれないが、HSPとは「Highly Sensitive Person」の略で、つまり「人一倍繊細で敏感」という性格的な特性を指す言葉である。
何気ない一言に深く傷ついたり感動したり、大きな音や声、光と言った刺激に弱いといった特徴が挙げられており、世間的には「生き辛い個性」と認知されているという。
一方、他の人が到達できない深さで物事を考えたり、共感したりといった強みもあるとのこと。言い換えれば、観察眼が生まれつき抜きんでているということかもしれない。
しかしながら、それによって脳のリソースを丸ごと削られているという負の面が、先の繊細さという形で表面化している、というのが実際のところのようである。
ちなみに僕自身もこないだふとセルフチェックをしたところ、こんな結果が出てきたので、人一倍繊細で敏感なのかもしれない。
―では、HSS型とは何か。これは「High Sensation Seeking」の略で、いわば常に刺激を求めるメンタル、噛み砕けば好奇心がかなり強い、というものだと言える。
つまりHSS型HSPとは、「好奇心も繊細さも人一倍強い」という、相反する特性それぞれが突き抜けた、本当に具体例が浮かんでこないレアな性格らしいのだ。
HSPは全人口の20%であり、HSS型HSPはさらにその中でも30%ほどだという。ひっくるめれば、100人に6人という計算になる。
クラスに一人はいる、喋らないけどやってることが不思議なヤツ。それがHSS型HSPではないか。だとしたらそれはもう、僕のことだと、強く思う。
ここで、視覚的に分かりやすい表を見つけたので、紹介する。僕はきっと、右上の枠にカテゴライズされる。我ながら、まさにその通りだからだ。
https://tokyo-brain.clinic/psychiatric-illness/hsp/4893
そして僕を確信に至らせたのは、以下のHSS型HSPの人たちの特徴の総まとめである。これを見たとき、「あれ?俺のこと観察してた?」と思ってしまうほど、同意した。
新しいものが好きで飛びつくが、すぐに飽きてしまう
外に出かけるのは好きだが、人混みや騒音などで帰ってからぐったりしてしまう
周りからは明るく社交的で元気と言われるが、実はそうではない
周りからは落ち着いていると言われるが、実は心の中で焦っている
初対面で打ち解けるのは得意だが、だんだん疲れて距離ができる
大胆な行動をとるわりに、些細なミスを引きずってしまう
好奇心旺盛ではあるが、常にどこかで警戒している
・・・血を吐きそうだ。ADHDよりも不安神経症よりも、より正確に僕を表現する言葉が見つかるなんて。でもそう考えたら、色々と納得した。心の底から得心している。
―その理由は、僕自身の生い立ちを考えてもよくわかる。ということで続いては、僕の人生のあちこちに存在する、如実にHSS型HSPらしい思考や言動を紹介する。
思い出すままに書くので極めて散文的になるだろうが、もし同意される点が多いのであれば、あなたはHSS型HSPにカテゴライズされる人なのかもしれない。
ではいこう。
僕のHSS型HSPと思われる思い出まとめ。
まずはHSP的な思い出を書いてみる。あとから読み直すと本当に病気としか思えないのだが、どっこい僕は生きているので、そこは安心してほしい。
―子供の頃、僕は人から笑われることが異常に嫌いだった。注目を浴びることも大嫌いだった。授業中に当てられるのは、公開処刑に等しかった。
徒競走も嫌いだった。走り方が面白いと指摘されたからだ。以来、僕が走る度、誰かがそれを見て笑っているのではないかと、ずっと憂鬱であった。(今もだ)
小学4年の頃、僕はクラブチームに入っている。だから自主練習に取り組む。しかし、その自主練習がとても恥ずかしく、どこか恐怖心もあった。
例えば素振りをしようもんなら、「あいつヘンなスイングだな」と誰かに言われるような恐怖を、ずっと感じていたように。
ちなみにそういう、周囲の目を全て敵意・嘲笑と考える思考の癖は、全く今も治っていない。例えば筋トレが好きなのにジムに通っていないのは、それが理由である。
他に自覚があるのは、動体視力がかなり良いことだ。視界の端でチラッと動くものがあれば、すぐに反応”してしまう”。昆虫採集・魚採りは、今でもすごく得意である。
これはそもそもの動体視力が多分良いってのもあるだろうけど、どちらかと言えば常に感覚が鋭くなっていることが一因なのではと、今は考えている。
―あと僕は、昔からドラマが嫌いだ。内容が陳腐とかそういうのではなく、演出として必ず盛り込まれる、登場人物の心身が傷つくシーンに耐えられないからである。
例えば主役が別の人物に裏切られ、心に傷を負う。何故か同じ沈鬱な気持ちが、自分にも湧いてくる。それが1時間は消えない。どんどんと疲れてしまうのだ。
劇中で殴り合いのシーンや集団リンチのシーンがあると、もう無理だ。その日1日、冗談抜きで気が滅入ってしまうくらい、すごく苦手である。
・・・不思議なもので、非現実的な戦闘シーンは、なんにも抵抗なく読める。例えばNARUTOやONE PIECEのバトルは、普通に読んでいて心が躍る。
だが生々しい、いわば人間の喧嘩の範疇だと、途端に見れなくなるので意味がわからない。ただ一方、ボクシングや格闘技の試合は好きである。なぜだろう。
後は、街を歩くのもすごく苦手だ。特に見た目が明らかにワルといったタイプの人が見えると、「絡んできませんように・・」と、すごく意識がそっちに持っていかれる。
むしろそうやってちらちら見るから絡まれると頭では納得しているのだが、謎の防衛本能が理性を常に乗っ取っている状態だと言える。
どうでもいいが、僕はパチンコをしない。正確にいうと、出来ない。パチンコ店の音と光が苦手で、数分とそこに居られないからだ。
そういえば、情報量が過多な場所が昔から嫌いだ。花火大会、文化祭、除夜の鐘。人混みや大きな音、光がある場所は、今でも絶対に近づきたくない。
繊細でありながら過敏。あらゆる刺激に対し、策を考えようとする思考。感受する刺激量が人の数倍あるくせに、その全てに意識を向けようとする矛盾。
別にHSPと思う情報だけを抜粋したのではなく、忘れていること、書いていないことも含めれば、ぶっちゃけ人生の思い出の7割くらいはHSPに関すると説明できると思う。
―では、HSS型と言えるような思い出は何があるのか。実はこれも、山ほどある。
まず前提として、僕は目立つことが嫌いで、人から意識が向けられたくないというのが本心だと伝えておく。
しかしその上でも・・・僕は人と同じことをするのについて、「面白くないな」という感想も、強く持ってしまう。時たま、同調圧力が全く通用しないことさえある。
例えば、背中に謎のメッセージが書いてあるシャツがとても好きだ。「親不孝でごめんなさい」と書いてあるシャツを、どっかの観光街で買ったことを覚えている。
今乗っている車も、人気がどうとか一切気にせず、自分が気に入った色を直感で買った。結構少数派な色らしく、塾生の何人かには完全にバレているというのに。
また、魚釣りによく行くのだが、同じところに何度も通うのは好きではない。無意識に避ける。新しい釣り場を開拓することが大好きだ。
しかし開拓しながら、「ここで釣りするな!」と怒られたらどうしようという不安が常につきまとっている。
・・・他にも恥ずかしい話だが、僕は正直、自分に自信を持っている部分がちょこちょこある。例えば三頭筋の形は結構悪くないと自負しているように。
だが格上の存在に出会うと、その自信は木っ端みじんに粉砕される。このレベルで吹聴するとかダメでしょという自分へのディスりも、当然セットだ。
・・・こんな風に、自分を卑下しながらもどこかに自信を持って、目立つことを恐れながらも人と同じことを避けて、刺激に弱いくせに新鮮なことがしたくて。
ブレーキを全力で踏みながら、アクセルを全力で踏んでいるとは、まさに言い得て妙な例えだと思えてきた。
ここまで思い出を整理して、もう確信した。僕はHSS型HSPで定義される一人なのだ。
しかし、自分とはどんな人間なのかというのが全くわからないまま生きるより、例えば生き辛いとカテゴライズされる特性であっても、わかっただけすごく嬉しい。
元々僕は、自分のことをADHDだと思っていた人間だ。それが、HSS型HSPに置き換わっただけなのだ。何も変わらない。
むしろ理解し受け入れることから、活用と許容は始まる。前向きに考えたうえで、次の項へ移りたいと思う。
HSS型HSPを活用する方法の仮説。
特性を理解したうえで、次に考えるべきは、それを無くすことではなく、緩和し、できれば活用していくことである。
こういうときは頭の中でぐるぐる考えても、答えなんか出てこない。だから人の知恵を拝借するのが理にかなっているだろう。
ということで同じくHSS型HSPの人は、どういう考え方や取り組みをすることで、センシティブ過ぎる自分と折り合いをつけているのか、調べてみた。
その中で参考になりそうなものを、この項では紹介してみる。もちろん、全て一度実験済みである。
①環境アセスメント
これは、一旦手を止めて、五感を順番に研ぎ澄ませながら、以下の自問をそれぞれ、自分に投げかけるといった感じのことだ。
自分にとって不快な刺激はなにか?
自分にとって快適な刺激はなにか?
この観点で周りの環境を観察し、好ましくないものを削って、好ましいものを残したり強化したりする。シンプルだが、これが非常に効果的なのだ。
例えば最近、隣室のオジさんの機嫌が悪く、「オラァ!」的な怒声を発しながら電話をしているのがよく聞こえてくる。そのたび、ものすごく不愉快になり、すごく疲れる。
となれば引っ越せばいいのだが、それはなかなか難しい。だから今は、耳栓を自宅の中で自分がよくいるところに置くようにしている。
不快な声が聞こえそうなら、耳栓を装着してそこから先の刺激を断つ。基本的だが、これがなぜだか、結構イイ。
他にも、家にいながら仕事のことを思い出してもやもやするときは、即Keepメモに打ち込んで、頭から出すようにしている。これもまた、結構イイ。
シャワーを浴びているときはそれができないので難しいが、そういうときは小声で歌を歌っていると、余計な思考が湧いてきにくくなるので、それで躱している。
ちなみにHSPの特徴として、不快な気持ちを感受しやすい方ばかり喧伝されがちだが、実は快適な気持ちも人一倍受信しやすいという特徴があるのだという。
確かに、楽しいなと自分が思うことであれば、人目など一切気にならず没頭できる。自分がネガティブなことを受信した後は、好きなことで上書きをすればいいのだ。
僕にとって快適な刺激は何か。色々考えたが、どうやら天然・宇宙人と言われる人たちの言動をまとめたものを読むのが、僕にとってのそれだとわかった。
好ましくない刺激を受けて少し心が萎えたときは、このサイトを1分読むとすぐに元気になれる。面白い発見だなと思う。
嫌な刺激は減らす。好きな刺激は増やす。まずはそのシンプルな目線で、周りを見ていくことをオススメする。
②超細分化シングルタスク
強みなのか弱みなのかわからない僕の特徴に、ある仕事が振られると、同時に色んな仮説や調整を同時に閃いてしまうというのがある。
例えば「〇〇さんに××の連絡をする」というタスクについても、ざっと以下のことが頭に噴出してくる。
① いつ頃連絡するのが都合がいいか
② 事前に用意しておく情報は無いか
③ いつまでに返事が貰えれば話が進むか
④ これによって影響が出そうな人はだれか
つまり、大体の人にとっては1の仕事なのだが、僕にとっては4とか5とかそれ以上の仕事に増幅して飛んでくるという感じなのである。
この癖には散々悩んできたが、最近それを解決する方法を実践している人のブログを読んで、ヒントになりそうな教えを発見した。
ベースは、タスクを細分化して1つずつ処理していくこと(シングルタスク)なのだが、その細かさと切り替えのタイミングがすさまじいのだ。
例えば、メールを読んでいる最中に別のことが気になったら、メールを読み終わるまでやり切ってから、その別のことへ速攻切り替えるのだ。
つまり、その時々で頭の中に湧いてきているメタに、徹底的に付き合うということである。マシンガンで撃ち落とすかの様に、超細分化した仕事を狙撃し続ける。
これはマルチタスクではないのか、逆に仕事が進まずテンパるのではないか。そういう危惧も僕の中にあったが、まずはとりあえず、実行してみた。
25分でタイマーをセットし、そこからは集中力をブチ上げて、頭の中のメタを打ち落とし続けるかのように、超細分化した仕事を重ねまくった。
LINEに返信をして、授業に必要なプリントを刷り、その途中で掲示物を貼って、汚れていた机を拭き、残った掲示物を貼って、LINEの返信にまた返信をして・・・
というのを繰り返した結果、終わった量はそこまで顕著な差は出なかったものの、充実感・充足感がまるで違った。これは面白い発見だったと思う。
ちなみに後述するが、最近は頭に浮かぶ余計な刺激をスルーできるよう、瞑想を再び習慣として継続するようになっている。
この超細分化で仕事をした日は、生まれて初めて、瞑想をしながら1~2分寝落ちした。
それくらい気持ちよく、最後まで頭を使い切れたということだろうか。
前向きに考えたいと思う。
③瞑想
繊細だと何が問題かというと、スルーすればいい情報までも勝手に受信して、落ち込んだり元気になったりがとても激しいことなのだ。
であればスルーできるようになればいいという話なのだが、それは計算が苦手な人に計算が得意になればいいと言っているようなものである。
とはいえ、トレーニングを積めば、人並み以下のところから人並みには大体の場合持っていけると考えているため、基礎的なそれは積極的に積んでいる。
スルースキルにおける基本のトレーニングは、やはり「瞑想」だ。脳に湧き上がる思考をスルーし続けることで、受信する刺激を減らしていくのだ。
―今のところ瞑想を再開して10日前後なのだが、もうすでに変化を感じる点がある。
それは、たとえどんな思考が浮かんでも、「どうせすぐ霧散する」と心の底から納得しているという点だ。
昨日も、過去の嫌な思い出がパッと頭に湧いたが、「どうせすぐ消えるだろ」と本当に無意識下であしらう様な思考ができたのだ。
実際、思考や感情は、よくよく観察しているとわかるが、非常に流動的なものだ。例えば2分前のあなたはどんな感情だっただろうか。即答できる方が特殊だと思う。
興味のない10秒程度の動画を次々と意識の中で再生しているようなもの。実際、あまりにもぼーっとして、胡坐をかいたまま寝落ちすることさえ増えてきた。
今のところ、僕にとっての瞑想の時間は、こんな感じの解釈である。とりあえず1ヶ月程度は続けてみようと思う。
終わりに:生き辛いかどうかなんて、当人の解釈次第ですよね。
眉唾物ではあるが、以下のサイトでEQを調べてみた。それによれば、僕はやはり、感覚的に敏感というか繊細というか、そういうものがあるらしい。
しかし僕は、人の気持ちなど絶対にわからないという主張の方に同意する。
僕はあくまで、表情や仕草から勝手に人の気持ちを妄想し、自分に対する恥や敵意に変換する癖があるだけなのだ。
ただそれを上手く制御できれば、表情や仕草に無意識下で反映された気持ちを読むことは得意、ということになる。
例えば僕は、相手の会話に対する温度や目線などから、そろそろ帰りたがっているとか、この話に乗り気でないということを察するのは、すごく得意だ。
だから僕は、一般的に生き辛いとされるHSS型HSPについて、たとえガチで診断が出ても、淡々と受け止めると思う。同情されるだけなんか違うとさえ感じる。
変なことを言うが、僕は太った人について、すごく生き辛いだろうなと思っている。すぐ息は切れるし、身体は重いし、やたらと汗は出るし、健康にも悪い。
しかし太っているからといって、その人が不幸かどうかというのは別問題だ。幸せそうな肥えし者は、周りを見てもたくさんいるわけで。
だから純粋な疑問がいくつも浮かぶ。足が無ければ生き辛いのか。耳が聞こえないと生き辛いのか。そういった要因は、果たして自動的に不幸を意味するのか。
思うに、生き辛いかどうかは、当人の解釈次第である。五体満足で不幸そうな人もいる一方で、五体不満足で幸せそうな人も大勢いる。
診断を受けたわけではないが、少なくとも気質の傾向として、僕はHSS型HSPにかなり近いのは認めてもいいのではと思う。
弱みと強み、その両サイドをしっかりと見つめたうえで、ちょうどいい塩梅の何かを模索し続けたいと思う。
ブログのタイトルを変えたいくらい、自分の中では大きな発見と言えば発見である。その内本当に変えるかも。
では今日はこの辺で。
参考サイト一覧。
HSS型HSPとは?性格の特徴と対処法 | ブレインクリニック
https://www.humanservices.jp/wp/wp-content/uploads/magazine/vol45/49.pdf