僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

「ネガティブ」で片づけず、自分の観察を続けたい。

【HSP向け】嫌いな刺激は、「把握して」「避けて」「回復を待つ」しか無い。

受けると猛烈な不快感に襲われ、下手するとそれが翌日まで尾を引く。それくらい嫌いな刺激が、僕には存在する。(皆さんもそうであろうけど)

 

例えばそれはなんなのか。子供の奇声、モノを乱暴に蹴ったり投げたりするオッサン、周囲の部屋の住人の迷惑を考えずに室内で熱唱する大学生など、様々だ。

なぜこういったあれこれを、僕は許すことができないのか。強い憎悪の感情を伴って、過去の嫌な記憶を想起させるほど、徹底して拒絶してしまうのはなぜなのか。

その理由を知りたくて、貪るように小説を読んで表現するための言葉を探そうとしたり、心理学者の解説を読み耽ったり、書き殴ったり、色々とやった。

 

だが、この嫌悪感も嫌いな刺激も、一向に軽くなることが無かった。いわんや、克服をや、だ。

 

ハエトリグモすら触れない子に、タランチュラを手に載せることを強要するようなものである。解像度が高くなっても、つまり嫌いだという感情は全く変わらない

 

半年くらい様々な努力を重ねたが、ここ最近、もう諦めつつある嫌いなものはつまり嫌いであり、克服することはできないのだ、と。

 

だから最近は、嫌いなものに対する解釈は変わらないという前提で、色々な手を試すように工夫している

 

そして今のところ、まだ仮説の段階だけど、嫌いな刺激は、「把握して」「避けて」「回復を待つ」しか無いと納得している。

 

今日はそんな話である。

 

 

嫌いな刺激を把握せよ。

 

 

まずは何より、自分が嫌いな刺激をしっかりと把握することから全てが始まる。把握しなければ、そもそも対処することもできないからだ。

 

見誤るリスクはあるが、自分が何に苦しんでいるかを突き止めるには、敢えて具体例を並べてみる方が取っかかり易いと思う。

 

僕の場合は、さっきも書いたが、奇声、大きな音、怒声、その辺を凄く不快に思ってしまう。他の人は平気らしいが、僕はもう耐えがたいほどのストレスを抱く。

 

とはいえ、子供の泣き声や金切り声については、友人の子供や姪っ子のそれは平気なので、何か僕の中に線引きがあるのかもしれないが・・。

 

しかしながら、大きな音や怒声については、発生源が友人・家族問わず、猛烈に不愉快である。それ自体について、正直狭量だとか、そんな感想を持つ必要は無い。

 

嫌いなものは嫌い。それをまず受け止めよう。そして、受け入れよう。そのうえで否定は重ねないようにしよう。全てはそこから始まるのだから。

 

20年近く頑張ってきたが、一部の嫌いなものはずっと嫌いなままである。成長とともに平気になったり好きになったりするものはあるが、そうじゃないのも当然残る。

 

それ自体に良いも悪いも無い。そこは強く念押ししておく。

 

嫌いな刺激から逃避せよ。

 

そうして自分にとって嫌いな刺激を突き留めたら、できればそれが発生するメカニズムを考えたい。ものによっては、システムへの介入で軽減できるからだ。

 

例えばドアが閉まる音がうるさくて不快なら、消音テープを貼れば、イヤな気持ちにならない程度にまで弱めることは可能となる

 

しかしながら、隣の部屋の住人がうるさいといった風に、こちらから介入しきれない状況も存在するものだ。

 

僕も、低学年向けコンテンツの教室が、事務室すぐそばにある。幼児なので、感情が謎の要因で容易に乱高下する。奇声も飛ぶ。その度にすごく疲れてしまう。

 

こうなったら、お手上げなのか。実を言うと、ここから先は、自分にできる工夫で軽減していくフェーズとなる。

 

最近自分にとって特効薬になったのが、いわゆる遮音だ。教室の方を向いている耳を指で塞ぐだけでも、僕の精神的疲労は大幅に減ることを確認した。

 

露骨に耳栓を付けていると角が立つので、今後はノイズキャンセリングイヤホンを買って、片方の耳だけでも消音するという手を試そうと考えている。

 

ちなみに家にいるときは割とずっと、耳栓を付けている。車のドアを乱暴に閉める音とかそういうのも全て消えて、無音になるからだ。すごく平和だ。

 

嫌いなものは嫌いなので、好きになる努力など徒労である。それよりかは、そこから出るネガティブな影響を消す方に投資した方が、絶対に実りは多いと感じている。

 

嫌いな刺激によって受けたダメージを癒せ!

 

最後に大切なのは、一人の時間を必ず作って、精神的に受けたダメージをきちんと癒すことである。基本的に嫌いな刺激を受けた際は、思った以上に体力を奪われている。

 

そこで必要なのが、回復という考え方だ。HSP気質であろうと、適切な方法を使えば、感覚的な疲労を癒すことは可能である。

 

仙豆がありさえすれば死ぬ手前までのトレーニングをしても平気なように、仮にメンタルがぐったりすることが予想されても、癒せられれば問題は無いのだ。

 

ただ、HSPを疑うほど自覚があるのであれば、その環境は思った以上に無音で、独りになれる場所である必要がある

 

僕の場合、例えば駐車場はダメだった。下校中の中学生の声、車が走る音、奇声、工事の音。それらが聞こえる度に、結局疲れてしまったのだ。

 

色々な場所を試してみたが、今は無人の部屋に耳栓をした状態で引きこもるのが一番落ち着くと思っている。はたから見れば病んでいる人だが、まぁ間違いではない。

 

そして「よし、イケる」とメンタルが回復したと思えるまでに必要な時間だが、僕の場合だと、それは思ったよりもずっと短い

 

ざっくり2~3分でかなりリフレッシュできるので、これを1日に3回くらいやれば、疲弊せぬままに乗り切ることは可能だと感じている。

 

病んだ状態で決断をしたり作業をしたりすると、意味不明なほど悲観的な施策に出るものだ。それは非常に無責任である。

 

回復というエポケーはとても大事にしたいと、つくづく思わされる。

 

終わりに。

 

ということで、現時点での僕なりの(HSS型)HSP気質との向き合い方についてまとめてみた。

 

散文的で、まだまだ自分の中で発見できたことがあまりにも少ないため、ぶっちゃけお蔵にしようと思った。

 

ただ、文字数はなんだかんだで膨らんだし、ある種思索の一つの区切りとして、とりあえずこのままアップする。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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