どこかで何度も書いた話だが、僕は暇な時間が嫌いだった。空き時間があるとネガティブな思考が立ち込めてきて、非建設的な悩みに囚われやすくなるからだ。
その対処策としてすごく腑に落ちたのが、堀江貴文氏が提唱する「時間を埋め尽くす」という考え方だ。スキマを無くせばネガティブ思考が浮かぶ余地が無くなる、と。
とはいえ、そう簡単に「好きなこと」で24時間を埋め尽くすのは難しい。だから代替案として、仕事をギチギチに詰め込むことで、それに近いことを僕は心掛けてきた。
最近はそれによるものなのか、本当に仕事が忙しくなってきて、勝手にある意味では日常が充実してきている。それこそ休みの時間や日数が減るほどに、だ。
しかしそうやって目まぐるしく、自分のキャパぎりぎりを表面張力で耐えるような日々を送っている内に、ふと気が付くことがあった。
その気づきを冷静に考えてみると、それは「多忙」で人生を埋めることの思わぬ弊害だと思い当たった。そしてそれは、手放しで称賛するには危う過ぎることにも。
今日は本当に自戒のため、それをきちんと言葉にしておこうと思う。
「多忙」という麻薬。
多忙であることは、一歩間違えれば麻薬のようなものになる。ここ最近、ひしひしと、そう感じている。
実際、要るか要らないかを特に吟味せず、1日の時間全てに仕事を詰め込みまくり、それにばかり集中すると、それによって色々なことを忘れられる。
過去の黒歴史、未来への不安、そして疲労。これらを思考の外に追い出せるのみならず、ときに高揚感のようなものさえ得られることもあるくらいだ。
そして仕事が終わって一息つくと、さながら効果が切れたかのように、忘れていた疲労が蘇り、どこかへ行っていた反芻思考が戻り、すごく調子が悪くなる。
だからまた多忙を求める。多忙である間は、それらを忘れられるからだ。そして暇を嫌う。暇になれば、それらが自分に蓄積されていることを思い出してしまうからだ。
とはいえ、疲労はあくまで忘れているだけであり、本当にどこかへ消えたわけではない。そしてそれが閾値を超えれば、ハイになっても身体が動かなくなる。
骨に負荷をかけ続ければいずれ折れる。折れてしまえば、たとえ痛み止めを服用しても、動かせなくなる。それでも無理して使い続ければ、二度と元に戻らなくなる。
それは心や精神も同じはずだ。疲労を多忙で忘れる。それを何度も何度も、何度も重ねる。結果どうなるか。想像するだけで恐ろしくなる。
時に手を止めて、多忙による誤魔化しを身体から抜き、疲れていること、不安を感じていることをしっかりと認識する。
有耶無耶にするのではなく、きちんと対処する。休日を潰して働くことも、それはそれで気分はいいのだが、見えないところで身体が壊れているリスクは自覚すべきである。
多忙は麻薬のようなもの。陰と陽ではないが、ダークサイドもきちんと理解しておこうと、改めて思った。
「多忙」は必ずしも自分を幸せにしない。
多忙で人生を埋めるとき、他のオプションをかなぐり捨てながら走っていると、本当に時々思っている。
デート?仕事があるから無理。温泉?仕事があるから無理。出会いの場に行く?仕事があるから無理。昼過ぎまで寝る?仕事があるから無理。こんな風に。
今はそれでも別に苦しくはないからいいのだが、では人生最高レベルに幸せかというと、そんな感じもしていない。むしろ感情の乱高下とは無縁の日常になりつつある。
多忙であることには、自分から余白を取り去って、ネガティブな思考を生まないようにするとか、仕事の見かけ上の成果が増えるとか、そういうメリットはある。
ただ、これはあくまで「マイナスに落とさない」ことであり、「気持ちをプラスに転じさせる」ことについては、直接は繋がらないと薄々感じている。
自分がブチ上げた数値目標に届かせるためにはどうしても連勤が必要で、かつその効果が出ているのなら、やっていて楽しいと思う。
黎明期のライブドア(オンザエッヂ)やサイバーエージェントの無茶苦茶過ぎる多忙の話を読むと、それに伴って会社が大きくなっていることから、すごく楽しさも感じる。
しかし忙しいことを目的とした忙しさは、気付いた瞬間から崩壊が始まる。幸い、僕の場合は人数が増えたことによる忙しさによって連勤が続いているので、まだマシか。
人が足りない。同調圧力で休めない。休んでも仕事の連絡が来るから休むだけ損。休んでも他にすることなんて無い。
そういう背景がある場合、とにかく心を壊さないよう留意してほしいと、切に願って止まない次第である。
―ということで多忙の危うさと、空き時間の尊さを伝えたところで、今日はこの辺で。