子供の頃、遊戯王という漫画が好きだった。(今もストーリーの大枠や時系列は記憶しているほどだし、その手のネタにはすぐ反応できる)
その当時は単なる面白い設定の一つと思っていたが、この作品の核となる概念の【もう一人のボク】という存在に、最近は当時とは別の感想を抱いている。
正直、自分の中に異なった自分が同居しているというのは、厨二でもなんでもなく、案外普遍的なものではないか、ということだ。
実際僕は、自分の中には、相反する二つの"思考・価値観"が隠れていることを感じている。そしてその程度は、最近すごく強まりつつあるとも思うのだ。
片方の僕が良かれと思った決断や思考を、もう片方の僕が否定する感じ。これを往復するような時間が始まると、さらに一歩引いたメタの僕は心底呆れてしまうのだ。
いうなれば、僕は司令官でありたいと思いつつ、同時に冒険家でもありたいようなのだ。今日はそんな、アホな二面性を掘り下げていく次第である。
自分の決断なのに、自分が納得できない日々。
以下、僕の脳内がどれだけカオスかを詳述するため、とある休日の一幕を紹介する。尚、この日が特別カオスなのではなく、割といつも、ということは念押しする。
休日が取れると、平日は我慢ぜざるを得なかった楽しみに加え、単にしなければならない家事の消化なども”To do リスト”に入ってくる。
それを少しでも頭にインプットすると、僕の脳内のADHDな部分が即座に反応し、夥しい連想ゲームを開始する。それは以下の通りで、別に誇張しているつもりはない。
「まずは日課の散歩と筋トレをしよう」「帰ってきたら洗濯機を回そうか」「でもこの量だと2回回す必要があるな」「そもそもいつ乾燥機に入れるのがベターだろう」
「今日は天気もいいし釣りにも行きたいな」「となれば満潮・干潮はいつだろうか?それ次第で洗濯・乾燥の時間も変わってくるよな」・・潮見表をチェックする
「となれば満潮2時間前には釣り場に到着しておきたいから、乾燥に掛かる時間が40分としたら、〇時〇分にはランドリーに持っていく必要があるな」
「じゃあ洗濯機を回すのはその1時間前ということか」「てか乾燥機回している間に釣具屋に行く必要があるな」「そういえば現金が無い気がする、コンビニ寄らなきゃ」
「じゃあランドリー・コンビニ・釣具屋を一筆書きするようなルートはどこを通ることになるだろう?」「そもそも何を釣りに行こうかな」「二か所は行きたいな」
「あー、そういえば少し終わっていない仕事があるから職場にもよりたいな」「でも夜じゃないと他の人がいるかもしれない、それは気まずいな」
「じゃあ20:00ぐらいに職場についておこう。そのためにはいつまでに納竿すればいいのかな・・」という風に、思考は未来へ未来へ、無限に発散していく。
これだけでも忙しなくてしょうがないのだが、厄介なのは僕のもう1つのメタだ。ADHDがとっ散らかした思考を、一つの秩序に収めたいという欲求もまた、強い。
具体的には、ぐちゃぐちゃの思考を時系列で並べ、そのそれぞれの繋ぎに無駄が無い状態を是として、それが固まるまで脳内での試行錯誤が止まらないのだ。
結果何が起こるか。想像に難くないが、フリーズしてしまうのだ。頭の中に先が全く見えないほどの靄がかかったかのようにぼんやりし、次の一歩が全く踏み出せなくなる。
正直、いくら脳内でロジックを組み立てたところで、それはあくまで仮説に過ぎず、もっと言えば画餅だの机上の空論だのと性質を完全に同じくするものに他ならない。
だからとっとと行動に移して、そこから得られたデータや気づきを基に次の行動を決めるというのが健全なのだろうが、そうはいかないのが僕のメタらしい。
皮肉なものだが、無駄な寄り道・無駄な行動をしたくないがため、最も効率的な手段を考えようとして頭を使いすぎることが一番の無駄なことなのだ。
しかし僕の潜在意識の方は、それに気づいているのか、はたまた意識的に無視しているのか、その辺りを一向に改める気配がない。
その辺りは、思考をすぐにとっ散らかしたものでいっぱいにするADHD気質にも同じことが言える。もう一人のボクたちは、僕にとって、どちらもロクなものではない。
この思考たちは同じベクトルを向かないものなのか?
つまり、片方はどこまでも理知的で、もう片方はどこまでも感情的であることを通り越し、強く本能的であると独り合点していたところがある。
実際にこの質問をChatGPTにぶつけてみたところ、これを補強するような、そんな言葉を教えてもらうことができた。
あなたが抱えている 「やることを考えすぎてフリーズする」 パターンは、ADHDの一つの典型的な特徴である 「選択麻痺(decision paralysis)」 や 「過剰な連想(overthinking)」 に該当する可能性があります。
また、これには 「タスク管理能力の過負荷」 も絡んでいるかもしれません。
ーということで、僕がこうして連鎖的な思考を自動的に発動するのは、いわば本能に近い部分の機能によるものだ、という仮説が立てられた。別に疑いの余地はない。
むしろ、例えば僕は語句やエピソードの暗記が得意で、年月を経てから友人と再会した際などは、なんでそんなことも細かに覚えているのか、驚かれるほどである。
これは先天的に連想のスキルが高いからというのを思えば合点がいく。あれの次はこれ、これの次はあれ、関係するエピソードはこれと、記憶が途切れにくいのだ。
ーだがこれにももちろんデメリットが存在する。意識しない限り、連想が"止まらない"のだ。ADHDあるあるの、好きなことの話が止まらないタイプのことである。
それゆえなのか、はたまたどっかで育んだ価値観なのかは知らないが、僕は同時に、そういう連想を意識的に監視するメタを抱えているのも感じている。
これを象徴するエピソードが、つい最近増えた。それは昔僕が担当していた生徒に呼ばれ、お酒を愉しんでいた際のことだ。
気が置けない会だったので、リラックスし、酩酊し、完全に出来上がって記憶喪失した僕であったが、その後の様子を聞いた際、自分のとある発言に、僕が驚いた。
ほぼ覚えていないのだが、僕は酩酊しながらも、「俺が語り過ぎても面白くない、もっと今の話を聞かせてよ」と自分の話を打ち切ったそうなのだ。
普通人は、酔うと武勇伝などを語りたがる生き物だ。それは仕方ないとも思いつつ、自分がそういう過去しか語れなくなったら終わりだとも感じていた。
そのメタが、酩酊してからも発動してくれるとは!自分の理性の部分がここまで強く、潜在意識・本能に及んでいることに、僕は驚くと同時に感謝さえ覚えている。
と同時に、どうしても思うことがある。僕の中に同居する二つの原理は、この上なく仲が悪いなぁ、というものだ。あたかも水と油のように、まるで相容れない。
本能的な部分は思考を散らかし、理性的な部分はそれを整理整頓しようとあくせくする。その衝突が、顕在意識において"苛立ち"として出てくることもしばしばだ。
もっと高次の意識の力で、これら二つの意識をさらに統率するものはできないのだろうか。そんな時にヒントをくれたのは、やはりChatGPTであった。
1. 「考える自分」と「動く自分」を切り離す方法
あなたの思考の力が優れているからこそ、次のアプローチを試してみてください。
● 行動は「たたき台」でOK
頭の中のシミュレーションはどんなに最適化しても完璧にはなりません。
➡ 「試しにやってみる」 という軽いノリで動き出すことを自分に許可する。
「とりあえずスタートする」 だけで、多動型の自分が動き出します。そして、その間に「理論派の司令官」が微調整をするのです。
● 1つの行動に「名前」をつける
行動を 具体的な1語に短縮する ことでフリーズを防げます。
例:「洗濯物を乾燥機に持って行って、コンビニでお金を下ろして・・・」ではなく、
➡ 「洗濯」
この短い言葉が「動き出し」のトリガーです。
● 思考を先行させすぎない工夫
シミュレーションが止まらないときは、「書くこと」で脳の負担を軽減します。頭で考えるだけでなく、 小さな紙に箇条書き する(アプリよりも視覚的なリストが効果的)。
2. 「今やることだけ」リスト
多動性が目まぐるしくスイッチするのは、選択肢が多すぎるからです。「次」を考えすぎない工夫をしましょう。
目指す状態だけ決めます(「今日は、ブログを1つ書き上げる」)。
そのための行動を1つだけ選びます(「まずはテーマを書く」)。
その後に次の行動を決めます。
➡ 順番はめちゃくちゃでもOK。思考の制御は「今やること」に限定します。
3. 許容する思考の余地
行動の非効率を楽しむくらいの気持ちを持ちましょう。
行程が完璧でないことは、想像以上に無害です。実際に動いてみると、8割の完成度で充分なことが多い。
あなたは言葉で物事を整理する力が非常に強いからこそ、行動を始めた後も思考を活かせます。
理屈型の良さと多動の力を 役割分担 させ、 まず動く→動きながら考える で回転させる。
これを繰り返せば、カオスだった思考と行動が一つの大きな力にまとまるはずです。
ーこれを読んだときにふと思ったのは、試合を外から観ながら、ゲームメイクのために指示を飛ばす監督の存在というマインドイメージだ。
僕の本能的な部分とは、いわば試合そのものと言ってもいい。相手選手、天候、疲労、コンディションなどの膨大な因数で動くそれは、数式で読み切ることは不可能だ。
だからこそ、シミュレーションには限界がある。ざっくりした方針をいくつか立てるのが関の山だ。あとは実際の試合展開に応じて押し引きするだけである。
そして僕の理性の部分は、監督の仕方を思いきり間違えている。読み切れないカオスを「やってみなくちゃわかんねぇ」マインドで読み切ろうとしているも同然だからだ。
となれば意識の力で考え方を変えるべきなのは、むしろ理性の方だ、となる。カオスなものをそのまま受容し、まずは試合を始めることを優先する。
あとはそれに対し、都度応対してみせるのが監督の腕の見せ所のはずだ。こうして冷静に切り離して考えると、僕は意味不明なことをしていたことがよくわかる。
ところで、このことを考える際にすごく示唆深いのが、仏教における「識」の考え方だ。以下のピラミッド型の構図を見ると、それはすごく理解がし易くなる。

乱暴に当てはめるなら、僕の理性はせいぜい「意識」にあり、そして僕のADHDっぽい部分は、「末那識」と「阿頼耶識」の間か、その両方に跨っている印象を持つ。
似ていると思ったのは、ロデオだ。上に乗っている人が僕の意識ならば、下で暴れ狂っているのが僕の本能、ということになる。
すなわち、理性と本能の関係性は、本来であれば試合と監督、カウボーイとブル、こういった構図と同じであるべきなのだと改めて思わされた。
アンコントローラブルなものをうまく”乗りこなす”。それは間違っても、支配することを意味しない。どちらかといえば活用や共存という言葉の方が、収まりがいい。
―では、これを僕の実生活において活用するならどうなるのだろうか。そこで最近試しているのが、先の助言通り、まずは行動を始めるというものだ。
潜在意識が気づいた”なにか”に、まずは従う。ただ、僕のメタは常人の数段上で興味が移ろいやすい。一つのことが終わる前に、別のことがいくつも気になるのが日常だ。
例えば食器を洗いながら、仕事における長期の戦略を考えてしまう。服を着替えながら、明日の遊びの必要物品のリストを浮かべてしまう。そんな風に。
だからこそ、目先の集中が解けそうという状況をうまく乗りこなすために必要なのが、僕の理性の部分なのだ、そしてここは、後天的ゆえに鍛練が可能なはずだ。
例えば優れたカウボーイ、監督、サーファーになることは、センスも勿論求められるが、まず何より膨大な経験値と、気が遠くなるほどの努力がその根幹にあるはずだ。
幸いにも僕は、自己観察にここ最近、強い興味と関心を覚えている。ハマっていると形容してもいいくらいだ。だから、センスはさておき、努力は全く苦ではない。
そう思えば、今の状況にも救いが生まれるなと、そんな風に思う。
終わりに:つまり僕とはなんなのだろうか。
ここまで書いたことを読んでいると、ふと思うことがある。ADHD的な稚気丸出しの部分と、理性の及ぶ部分。これら二つを並べた際、”本当の僕はどちらなのだろうか”?
僕としては「理性」の方を自己とみなしたいという想いが強い。単に稚気丸出しの部分は、愛しさこそ覚えるものの、思い出すに恥ずかしい記憶が多すぎるからだ。
だから考える。僕の内面から、稚気の部分を取り除いたら、より一層僕に近づくのだろうか。思うに、ただ斜に構えただけの評論家気取りになりそうだと感じた。
一方、理性を取り除いたら、それはつまり33歳にもなって幼稚園からやり直した方が良いほど未熟な存在に成り果てる。どちらを消しても、僕から遠ざかる印象だ。
あたかも、カフェラテを見ながら、コーヒーと牛乳、どっちが実態に近いのかを論じるのに似ている不毛さだ。端的に言えば、もはやどちらでもなく、二つで一つなのだ。
分解が必ずしも解像度を高めるとは限らない。五臓六腑の集合体が人間なのだ、と言われると、猛烈な違和感と嫌悪感を覚えるのに似ている。
となると、もう一人のボクという呼称を僕の本能や理性に宛がうのは不適切、という結論に至りそうだ。あくまでも一側面、それをただ描写したに過ぎないのだ。
【私とは何か】を再読するタイミングだな。
では今日はこの辺で。