僕はネガティブだけど、それなりに充実した人生を生きたいと思う。

「ネガティブ」で片づけず、自分の観察を続けたい。

夢や目標達成までの道のりは、【楽観】→【焦燥】→【絶望】→【悲観】→【冷静】→【達観】。

睡眠スコアを知りたくて買ったFitbitですが、気付けば心拍数ばっか気にしている中元です。

 

はい。31歳になった今、人生航路が大嵐に突入しようとしていることは、ウダウダと言葉にした。

 

もちろんまだまだ言葉にできていない部分も多いし、そもそも完全に無意識下に沈んでいるため、意識さえ及んでいないところも相当あると考えている。

 

そんなことを考えている際、ふと気づくことがあった。それは、目標設定と、それに向けての努力をする際の、自分の思考の変遷だ

 

そして目標が達成できるか頓挫するか失敗するかは、ある程度の共通点があることにも気づいた。

 

この思考の段階で止まれば失敗するし、逆にここまで思考が進めばほぼ例外なく上手くいく。そんな風に。

 

これについては昔、かなり解像度が低い考察を記事にしたことがあるが、今回はそれを大幅に更新したいと考えている。

 

ということで以下、参考になるかもしれない思考プロセスについて、書き殴っていこう。

 

 

まず間違いなく頓挫・失敗する【楽観】フェーズ。

 

全ての目標設定や努力は、僕の場合【楽観】から始まる。それを達成した自分を思い描いて、ワクワクする感じだ。

 

ダイエットに成功したら、バキバキの身体になった自分がいる。資格試験に通れば、箔が付いた自分になれる。そんな風に思うことから、大体の目標は始まるだろう。

 

だがこの時点で行動に起こすと、失敗するのがオチである。僕自身、人生を振り返っても、ワクワク状態で突っ込んで爆死した経験がいくつもある

 

例えば、嬉々として合コンに行ってみたら、自分の気質とは真反対のスキルが必須であり、結果5000円払って唐揚げ数個とビール数杯を腹に入れただけ、という思い出とか。

 

他にもそれこそ、「楽しいに違いない!」という他力本願全振りの行動をしてしくじった経験は、枚挙に暇がない。それこそ、思い出しきれない程に。

 

―一件、【楽観】は手放しで素晴らしいこと見えるからこそ、素朴な疑問に至る。なぜ、前向きな気分からの行動は、こういった悲劇に繋がりやすいのか

 

この理由は割と単純で、【楽観】とはそもそも、目指すべき対象についての情報が全くないからこそできることだからだ。

 

羽生善治氏も著書で述べていたが、「情報があればあるほど、リスクがまざまざと見えてしまうため、かえって不安が強くなる」のが人間と言える。

 

つまり、対象について本当に情報を得ていれば、あるいは得られる環境にあるのなら、普通は能天気に【楽観】などできないはずなのだ。

 

この時点でも色々ときな臭いのだが、この【楽観】には、さらに面倒な側面がある。それは、確証バイアスが強くかかってしまうことだ。

 

これはある種精神的なドーピングであり、「俺はできるに違いない!なぜなら、こんなにも自信があるのだから!」という勘違いがひたすらに強化される

 

できるという思い込みが強まり、更に【楽観】が進んで、それによって思い込みが増々強化される。負のサイクルだ。

 

こうなればもう、情報を集めようという意識さえ湧かなくなるし、仮に集めようという気になっても、自分に有利なデータばかりが目に付くことになる

 

これに陥ると、抜け出す以前に、自覚することすら極めて難しくなる。できれば事前に察知しておきたいものだ。

 

見城徹氏も、「上手くいっている仕事は疑え」と著書で説いているが、まさにそれは、【楽観】の罠に嵌っているリスクを指摘しているのだと思う。

 

もちろん、【楽観】には、自由な発想で大きな目標を立てられるというブライトな側面もあるため、一概にすべてを否定するわけにはいかない

 

しかしそれが行き過ぎると、やはり致命的な準備不足を誘発する。どうやってこれに対処するかは、10代の頃は何の施策も無くて、何発も強烈な失敗を食らったものだ。

 

―今はそこから学び、【楽観】から目標を立てたら、必ず情報を集めて、それによって思考が次のフェーズに移行するまでを、絶対に確認するようにしている。

 

そのフェーズとは、一言で言えば「行動すればするほど不安感が強まる」ということになろう。続いてはそんなお話をば。

 

ここで止まると大体途中で放り投げる【焦燥】・【絶望】・【悲観】フェーズ。


対象について情報を集めたり、実際に一歩踏み出したり、真似してみたりするとまずぶち当たるのが、【焦燥】だ。

 

情報や経験に触れていくことで、「あれ、思ったより難しい…」「え?俺ってこんなにできないの・・?」といったシビアな現実が自覚できてくる。

 

すると、普通は焦ってくるものなのだ。計画の始まりが【楽観】なら、行動の始まりが【焦燥】なのだと考えてもいい。

 

国公立大学を夢見て赤本を買ってきたら、まったく内容を理解できないほど難度が高かった場面を想像すればわかりやすい。

 

そしてこの【焦燥】の段階では、まだまだ対象についての解像度が低いと考えた方がいい

 

だからその焦りに駆られて、更に情報収集や闇雲な努力を続けると、目指すべきゴールの強大さと、現状の自分との隔たりが、一層浮き彫りになってくるものだ。

 

すると、ある種の【絶望】にまでたどり着く。俺にはもう無理だ、なんて誇大妄想な目標を立てたのだ、という風に。

 

僕も英検1級を目指していた頃は、過去問を解いた結果、1回このフェーズに落っこちた。そして得てして、人の心はここで折れる

 

ここでどう踏みとどまるか。それは人によって異なる。一旦対象から徹底して意識を切り離すため、娯楽に短期間没頭するのもいいと思う。

 

或いは僕みたく、逆に徹底して向き合って、片っ端から言葉にしていくうちに落ち着いてくるタイプの人ならば、そうすればいいだけだ。

 

そうやって【絶望】を脱することができれば、再び行動を起こせるようになるが、しばらくはどうしても【悲観】のモードが続くことは覚悟しておくべきだ。

 

これは確証バイアスのネガティブ版だと僕は捉えており、一度思考が【絶望】に吹っ切ると、起きることすべてがそれを”確証”するような材料に思えるからだ。

 

例えばテストの点数が60点だったとして、【悲観】モードに入ると、「40点も落とした・・無理かな」という考え方になりやすいように。

 

まさにこのフェーズこそが、大切なのだが当事者としては辛い段階であり、だからこそ様々な工夫を事前に用意しておくべきなのはここだと、僕は強く感じている。

 

少し長くなったので、一旦まとめておこう。

 

目標達成に向けて情報を集めたり、努力を始めたりすると、思った以上に楽ではないことがわかってきて、【焦燥】する

 

そこからさらに進めば、【絶望】にまで落っこちて、そこを脱することができても、しばらくは【悲観】に焦点が合った思考が続く

 

―だが、ここを切り抜けた先に待っている新たなフェーズに至ることができれば、大抵のことは結果が出ると感じている。

 

逆に、そこに行くためには、こういうある種”腐る”時間が必須なのだとさえ、僕は考えているわけで。

 

ということで今度は最後のフェーズ、【冷静】【達観】について説明していこう。

 

このエリアに至れば何かしらの結果が出る【冷静】・【達観】フェーズ。

 

目標が無茶苦茶でなかったり、あるいは努力が適切だったりすると、【悲観】のネガティビティバイアスは、段々と弱まってくるものだ。

 

それはなぜかというと、着実に自分の能力が伸びてきて、目指すべきゴールに近づいていることに、ふと気づく瞬間が大抵は訪れるものだからである。

 

例えば、長いことくすぶっていた模試の判定が、EからCへ上がるのもそう。全然バットに当たらなかったのに、ある日から良い打球が飛ぶようになるのもそうだ。

 

ずっと下を向いて歩き続けて、ふと顔を上げたら、結構山頂に近付いていたことに気付くような感覚ともいえる。こうなれば、メンタルは安定する。

 

【悲観】の状況下でも、淡々とやるべきことに取り組み続けること。そして少しずつ、目に見える形でゴールに近づいている手ごたえを得ること

 

こういう経験値を得られると、【冷静】になってくる。感情としては、【悲観】と【楽観】の本当に境目、つまりニュートラルな状態だと僕は考えている。

 

この時点でも、適切な努力を結構な期間重ねられているということで、目標達成の可能性はかなり高まっていると言える。

 

僕自身も、ここまで仕上げれば、大体成功率は8割を超えると感じている。(2割は本当に無謀な挑戦だったということだ!)

 

―しかし、滅多に辿りつけるものではないが、ほぼ目標をオーバーキルする準備が完了したことを示すメンタルが、まださらに存在する

 

それが【達観】だ。先ほどの【冷静】に、客観的な指標で裏打ちされた強い「自信」が乗った感情だと僕は考えており、いわばゾーン一歩前の心境にかなり近い。

 

直近だと、英検準1級の一次試験と、英検1級の二次試験二回目の挑戦で、僕はこの【達観】に至った

 

前者は過去問・予想問題を20回連続くらいで合格点を取り続け、後者は100回以上想定問答を繰り返してもつんのめることが無くなったのを確認したら、【達観】できた

 

ただし【達観】とは言い換えれば"忘我"の状態のため、記憶を呼び戻せず、言語化することがほぼ不可能というデメリットがある。

 

だから、僕の中では、この状況に至るための条件が、ほぼ言語化できていない。猛烈な努力と、客観的な指標による自信は不可欠だろうが、引き金がわからないのだ。

 

ゾーン(≒フロー)という精神状態についての研究も、まだ手探り感が強い。引き続き情報を集めて、【達観】フェーズの解像度を高め続けたいと考えている。

 

―ちなみに、特に努力した自負もなく、「あ、なんとかなりそうな気がする」という感覚ばかりが強まっているとしたら、それは【達観】ではない

 

正常性バイアスによって作られたまがい物の自信であり、つまり【投げやり】【捨て鉢】といった状態になっているだけである。

 

こういう状況下でテストを受けたら、大抵爆死するだろう。間違えることはないと思うが、【達観】と【捨て鉢】は割と似ていることには留意されたし。

 

終わりに:僕はまだ独立について【楽観】の入り口にすら立てていない。

 

では僕は、【独立】という野望について、どの段階にいるのか。せめて、【焦燥】くらいには至っているのか。

 

―恐らく、【楽観】の入り口にすら立てていないと思う。情報が少ない以前に、そもそも何をすればいいのかを全く理解できていないことの裏返しだろう。

 

例えば「オーストラリアへの海外旅行」と言われれば、心は高ぶり、【楽観】ができる。なぜかと言うと、楽しいことくらいは想像できるからだ。

 

しかし、ブルネイへの海外旅行」と言われても、楽しいとか不安とか、そういった感情すら抱くことが難しい。なにせ、本当に何もわからないからだ。

 

今僕は、はっきりと後者の状態にある。何を集めればいいかもわからないが、とにかく情報を集めなければ、本当に無意味な時間ばかりが流れ続けてしまう。

 

闇雲でもいい。Googleで検索を片っ端からかけて、急速に夢の輪郭を作っていく必要があると、今猛烈に焦り始めた

 

【楽観】を経由しない【焦燥】―。これは初めてのプロセスなのだが、このことがどう今後作用するのか、なんか面白がれそうな気持ちさえする。

 

自分の努力は今、どの段階なのか?―これを起点に問いを重ねれば、成功体験の量で勝負できなくても、質で勝負できると僕は信じている。

 

段々と深いところにダイビングするように、ゆっくりと着実に、深度を増していければと思う。

 

では今日はこの辺で。

 

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