ちょっと前、僕が【競争】に抱く違和感について、つらつらとまとめてみた。
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実を言うと、この記事だけでは自分が抱えているしこりを表現しきれなかった。言いたいことはあるけど、言葉にしきれなかったという具合。
そんなワケで自分以外の人の目線や意見を色々ときいた結果、今やっとソレを言葉に出来そうだと思えている。
ということで、【競争】と『ネガティブ』は思った以上に相性が悪いぞ!というのを、以下また論じていく。
僕と【競争】。
僕が初めて競争を意識したのは、小学校の運動会だ。僕は運動神経が悪く、徒競走などは恥さらしの場としか考えていなかった。
当然結果は悪く、自尊心は大きく損なわれた。まるで公開処刑である。以来、運動会は高校3年までずっと、嫌で嫌で仕方がなかった。
ただ、その後【競争】は、自分にとって良かったり悪かったりであった。
計算の早いヤツと100マス計算を競い合ったり、漢字ドリルを誰が一番に終わらせるかで競争したり、模試の順位で校内のヤツと競ったり。
自分の成長のため、めっちゃ活用させてもらった記憶がある。何より、誰かと競い合うのは、案外楽しかったのもあるけれど。
―ここで止めると、『結局何だかんだでお前も【競争】をエンジョイした側じゃねえか』と思われそうだ。
ところがどっこい、話はむしろ真逆である。僕は競争の結果、最終的に幸せになったことは皆無なのだ。
つい最近まで、僕は自分に自信がないことをコンプレックスとして捉えていた。(今は、別にどうでもいいやと興味を無くしている感じ)
そしてその欠落した自信の穴埋めを、自分が【競争】で勝った結果で行おうとしていたのだ。
―これは軽く【優越コンプレックス】に足を突っ込んでいる状態で、自分を受け入れられていない人に起こりがちな現象だという。
その結果、僕の心はめちゃくちゃ拗れることとなる。
前回の記事で言ったことだが、世の中、或いは過去や未来に時間軸を広げれば、必ず自分より優れた人間はいるものだ。
つまり、【競争】の定義をひねくれて解釈すれば、いずれ自分は必ず『敗者』になるのだ。
だから、才能あふれる人間に出会ったとき、心の奥底に何かがつっかえる感覚があることを自覚していた。
高2でセンター試験で8割を取ってしまう生徒。ストレートで医師になった同級生。早々に生涯の伴侶を見つけた友達。
本心では、僕は彼らを素直に祝いたいし、素直に尊敬したいのだ。だが、心の奥底につっかえた何かがそれを邪魔する。
今ならハッキリとその原因が分かる。
彼らは『勝者』。そして僕を『敗者』にし、僕のわずかな『自信』を粉砕する"敵"。恐らく無意識にこう考えていたのだ。
僕自身の抱える闇の中で最たるものである。それを育んできたのが、他ならぬ【競争】という図式だ。
自分を受け入れぬまま、【競争】を利用するのは危険なのだ。勝つことでしか自分を認められないなんて、悲しい話ではないか。
これはきっと、自由とは真反対の生き方。負けることが自己重要感を損ねることと同義になれば、次の一歩は当然出辛くなる。
だが、【競争】なんて時間軸やフィールドを広げれば、必ずどこかで負けるものなのだ。
この考え方に囚われると、僕みたいな自己受容が出来ない方は、ネガティブのループに迷い込む。どこに救いはあるのか、僕は10年以上探してきた。
―そして最近悟った。結局、救いは【競争】から降りた先にある、ということを。
ということで、次もまた個人的なストーリーではあるが、僕がそう悟ったきっかけを伝えていく。
~れば幸せ・・にはなれなかった。
かつてこんな記事を書いている。
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こんな記事を書いていながら、その時点で僕はまだ『可能性の中に生きる』ことを捨て去り切れてはいなかった。
『可能性の中に生きる』とは、『~れば・・・なのに』という言葉を多用する状態。
悪く言えば、なんだかんだ言い訳をして、一歩を踏み出さないというのを繰り返している状態である。
例えば、『あと年収が100万円高ければ結婚できるのに』とか、『もう少し背が高ければモテるのに』とか、そんな感じ。
こういったセリフはつまり、『自分を受け入れていないこと』の裏返し。たられば話が多い人は、実は自分に自信がなく、自分を認められてもいないのだとか。
さて。僕自身、『可能性の中に生きる』ってことは、最近まで捨て去れていなかった。例えば、『何かで成果を出せば、自分の格が上がる!』というみたいに。
どうでもいい話だが、一昨年僕はなんだかんだで英検準1級を取得した。
理由は、仕事で活かすことが60%で、もう40%は、自分に箔をつけるだとか、これで自信を持てる!だとかといった、少々不純なものだった。
で、結構な量の勉強を積み、無事合格した僕。だが、結果僕は、『幸せ』にはなれなかったと感じる。
取得した次の日から、自分より上の人間の存在がやたらと気になったためだ。帰国子女。1級取得者。京大・東大合格者。頭がくらくらする。
僕など所詮、そういった才能の塊から見れば、路上に転がる石ころみたいなものではないか。
どうしても当時はそう思ってしまった。だから―本当は言いたくないが白状してしまおう。
僕に『おめでとう』と声をかけてくれた人たちが大勢いる。僕はそれについて、実は全然嬉しくなかったのだ。
理由は、僕が僕に『よくやった!』と思っていなかったからだ。
おめでとうと言われても、『いやいや、まだ上があるし、全然すごくない・・』と謙遜ではなく本気で卑下していた。
まだ上がいる。まだ上がある。僕はまだ敗者の状態だ。合格の賞状が届いても、僕はその辺に放り投げ、半年くらい家の中で紛失していた。(後、発掘)
だから今度こそ―そう、もう1つ上を取れば、僕は今度こそ幸せになれるはず。まだ上があるなら、そこを目指そう。
それをモチベーションに、今いる場所から抜け出すために、僕はさらなる努力を重ねた。
そして今年。
僕は英検1級に合格した。
二次試験に一度跳ね返されながら、僕はついに自分が【勝者】と思っていたところに辿り着いた。辿り着けたのだ。
―では、今度こそ僕は幸せになれたのか?どうなのだろうか?
その答えはこうだ。
「少しだけ。」
僕の悪い癖だ。実は1級合格を告げるHPに、僕の順位が載っていた。
1級受験者中、広島会場で上位13%のどこかだという。これの是非はさておき、その時の僕は、まだまだ上にいるという事実に目が向いた。
てっぺんを取ったつもりだったのに、まだ上がいるなんて。僕の心は折れそうであった。
僕より高いスコアで合格した人のブログ記事がやたら心に残る。またしても僕は―『勝者』になれなかったっぽい。
その後、職場や友人から驚くほど祝福を頂いた。だが、僕自身、そんなに大きなことを成し遂げたという感覚は無かった。
『結局、自分の思い描いていたところに到達しても、こんなものか。』
僕は合格したにも関わらず、しばらくめちゃくちゃ冷めていた。
僕は、『英検1級に受かれば幸せになれる』と思っていた。そしてそれを成し遂げた。だが、そんなに幸せにはなれなかった。
救いはどこにあるのだろう。そんな具合で思い悩んでいた僕は、賞状が届いたときに、全てを悟ることとなった。
僕は【競争】に色々奪われていた。
ある日、僕の家に、英検協会から郵便物が届いた。家で一人それを開封し、しばらく眺めてみた。
『あー。俺、頑張ったよなぁ。無理だと何度も思ったよなぁ。二次試験、滅茶苦茶練習したから、スコア結構良いなぁ。』
色々な熱いものが、心の底から込み上げてくる。
・・・・おや?素直に嬉しい。そして素直に幸せだ。
合格したあの時感じられなかった全てを、僕は独り噛みしめていた。感じられなかったあの時と今、何が違う?僕は少し考え、すぐに悟った。
『今、俺は誰とも何も比較していない。』
なるほどなぁ。僕は"勝手に"他者と比較し、"勝手に"自分を敗者にしていただけなのだ。
努力しない自分に価値はない。だから、常に努力を要する状態―つまり"敗者"に置くことを選んでいたのだろう。
だが、なぜ努力しない自分に価値が無いと思うのだろう?なぜ僕は、僕自身を許してあげられないのだろう?
それは誰からも嫌われたくないからだろうな。世間は、怠けものを嫌う。だから、怠けもののゾーンに自分を置いてはならない。
自分の幸せ全てをないがしろにしながら【競争】へ身を投じていたことに気付いた瞬間、僕はここから降りることを決意した。
そして今。僕はほぼ他者比較のステージから降りられている。僕は素直に自分が好きなことは好きだといえるし、得意なことは得意といえる。
それについて茶々を入れてくる人間が居たら、僕は不機嫌になるどころか同情するだろうな。
そういう言葉をかける人たちは、かつての僕の思考と同じだから。気持ちが分かってしまう。
『敗者』になるのは怖い。だから、『勝者』も『敗者』もいない世界に行くことに僕は決めた。
それを逃げという人は、一体何と戦っているのだろう。そういう意味で、僕は全然気にならない。
蓋を開けてみると、僕は【競争】に相容れない人間だった。ただそれだけなのだ。
皆様も一度、自分の気質や能力を鑑みて、【競争】が本当に自分の居場所なのかどうか、見直してみてほしい。
終わりに。
今の日本社会において、自由に生きられている人たちを思い浮かべてみた。
すると、ある共通点が浮かぶ。その人たちは確かに能力が高いが、それを殊更に言いふらしたり、誰かと比べて勝った負けたをしないのだ。
それを人から言われても全然気にしていない。まだ上がいることを認めながらも、それにより自分で自分の価値を落とすことをしない。
むしろそこから学びを得て、さらに自分を高めることに活かすなんてこともやっている。
―ちょっと前なら、僕はこういう人たちに敗北感を覚えていただろうな。だが今は、素直に尊敬できるし、真似してみようとも思えている。
また、その人たちは、好きなことを好きということに一切の躊躇が無い。自分で自分を認められているので、人から何を言われようと平気なのだ。
―この思考、もっと早く気づきたかったなぁ。でも、まだ20代のうちに気付けて、良かったよな。僕は自分を受け入れているし、認めている。
誰かと比べるのが辛ければ、正直に好きを好きと言えなければ、そして他者を素直に祝えたり尊敬出来たりしないなら―。
【競争】という世界から降りてしまおう。
その外に広がるのは、平和で、敵のいない、のどかな場所だから。誰かと比べなくても前には歩ける。敵は要らない。伴走者が居れば、それでいい。
―というメッセージをもって、終わりとする。