最近、頭に栄養がマジで回りません。ダイエット状態を長期間続けると、体が脂肪を燃やさないように変化するという話もあるので、小休憩どきかもです。中元です。
さて。僕の仕事は【塾講師】である。顧客は当然、小~高校生までの学生であり、この時期は当然、メンタルもいろんな影響を受けがちでデリケートである。
・・・そして、特に早熟型のメンタルを持つ生徒にたまに見られるのが、学校へ行くことの拒否である。
今までこうなった生徒を持ったことは1回2回ではなく、何なら現在進行形で担当している生徒もいるほどだ。
―ここまで書いて、あることが気になって、チョイと調べてみた。
するとわかった。不登校の生徒の数は7年連続増加しており、人数比を見ると、別に珍しい現象でも何でもないのだという。
また少し考えれば、その原因が100%【いじめ】を始めとする、超ドロドロしたものばかりじゃないことにも気づかされる。
例えば僕の友達は、高校3年の一時期学校に来なくなったのだが、その理由は大学受験の勉強時間を確保するためであった。だがこれも、定義上不登校となる。
さて。ここまで調べて、自分の中で【確信】に変わったことがある。
それは、【自分が不幸と思うこと】と、【他者が不幸に思うこと】を同一視するのは危険ということだ。
今日はそれについてつらつらと書いていきます。
みんなちがって、どうでもいい。
凄くどうでもいいのだが、僕は正解の押し売りが大嫌いである。つまり、自分の腑に落ちない限りは、世間的に【正解】だろうと受け入れたくないのだ。
例えば、自分の部屋はキレイであることが理想とする人は多い。
うちの母はまさにそのタイプで、僕が学校に行って帰ってくると、部屋が勝手に掃除されていることがちょいちょいあった。
それについて、過去何度衝突したかわからない。僕は僕のルールに従って、僕にとっては秩序ある合理的な状態に部屋をしているのを、なぜ崩すのかと。
しかし、衝突したままで何かが解決されることは基本、無い。向こうに言わせれば、部屋が汚いのを容認とかできないという話である。
だが、「汚い」というのはそちらの価値観であって、僕の価値観ではこれは「秩序ある」状態なのだ!!・・と言うのは不毛なのでこの辺にしよう。
こんな風な価値観の押し付けを嫌う人って、大人になっても一定数いると思う。というか思春期を経験した男子なら、必ず経験するであろうやり取りじゃなかろうか。
そして、この部分に同意する人は結構多い。人の人生に手を出すな、と。介入するな、と。似たようなこと、スネークも言ってたな。
ーしかしながら、これに同意する人も、ある状況下であれば、全く同じことを人に対して施すケースがある。
それは、その人にとっての【不幸】の定義に、誰かが当てはまっているときだ。これまた例を挙げよう。
知人に、40歳独身の男がいるとする。彼女もいなくて、寂しいと感じていると違いないと、あなたは考えていたとしよう。
それを助けるため、あなたは合コンのセッティングに奔走したり、積極的にマッチングアプリへの登録を促したり、その人を不幸から脱出させる手助けを頑張ったとする。
だが、その人が乗り気でないとしたらどうか。恐らく、あなたは、イラついたり疲れたりするんじゃないかな。
「こんなにしてやってるのに、何で私の助けを受けないんだ!!」という風に。
いやいや。大きなお世話である。もしその人が救われたがっているなら、その助けには積極的に乗ってくるはずだ。
だが、そうしないということは、別に救われたくないのだろう。つまり、当人にとっては別に不幸でも何でもない可能性が高いということだ。
妻や子供のためではなく、自分のために時間を使う方が良いという価値観なのかもしれない。結婚に大した重きを置いていないのかもしれない。
だが大抵は、そこに意識が向くことは無い。【俺なら、そんな状況耐えられない!だからこいつも辛いんだ!!】という論理で、勝手に結論が出て大体終わる。
コレってつまり、最初に書いた正解の押し付けだよね、と。当人からすれば、どちらにせよ、価値観の強制ほど鬱陶しいものは無い。
「俺は独身彼女なしとか耐えられない。だからあいつもきっと苦しんでいる」みたいな目線を他者から向けられたら、とりあえず僕は不愉快である。
だからこそ、【自分の正解は他者の正解】という意味不明な論理と同じくらい、【自分の不幸は他者の不幸】というのも意味不明なので、そこは気を付けた方が吉である。
では、自分が思う不幸に浸る人とは、どう接すればいい?
ここが難しいのだが、まず何よりも、その状況について、当人がどう思っているかを知ろうとすることが大事じゃないかなと思う。
例えば冒頭に書いた例だと、世間的には【不登校】は悪いものであるとされるが、もしかしたら本人は、学校に行かないという選択に満足しているかもしれない。
また特に子供の場合は、その面倒を見る親の存在もある。その選択に親が全く噛んでいないとか、それもまた考えづらい。
一家の総意として例えばその選択を採っているのであれば、外野の僕がとやかく干渉するのは本当にただのお節介だし、無知な人間が首を突っ込むなという話である。
とりあえず僕は、本人がその選択に満足している様子である限り、そこに横やりを入れるのは控えようと考えている。これには、僕にも原体験がある。
以前ここにも書いたけど、僕はかつて4ヶ月ほど、前職を休職したことがある。診断名は【適応障害】だったけど、うつ病までいってたんじゃないかな?
hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com
その間、周りはひたすらに僕のことを放っておいてくれた。僕はそれが一番ありがたかった。無理矢理あちこち連れまわすとか、余計なことをせずにいてくれた。
振り返れば、おかげで4ヶ月程度で復活できたとさえ感じている程だ。こういう体験があるからこそ、僕は無責任な不幸への干渉に疑問しかないのである。
では、無責任じゃないとはどういうことか。それは、相手のことをきちんと理解しようと取り組むことに他ならない。
自分にできるアクションを取るのは、そっからじゃねーかなと思わずにはいられない。そっとしておいてあげるのが最適解ってことなど、ザラなのだ。
おわりに。 ―じゃあ僕はどう接するか―
じゃ、最後に、僕がそういう生徒に、どんなアプローチをしているかを伝えておく。それは、学校外の世界を伝えることである。
ぶっちゃけ、この世とは学校だけじゃないのだ。これは当たり前と思われるだろうか?しかし、それに気付ける人は、当事者である限り超少数派だ。
不思議なもので、辛いという感情に支配されているとき、視野は驚くほど狭窄する。「嫌なら辞めればいい」という選択を取れる人がいないことからも、それはわかる。
だから、無理に行動を変えようとはせず、でも現状に絶望しきらないように、その他の世界の存在を教えてあげることが、他人である僕にできる限界じゃないかなと。
本気で【治そう】と思うなら、相談相手は僕じゃなく医師やカウンセラーであるべきだろう。そこは冷静に考えたい。
ということで、少し長い独り言みたいな記事ではあったが、今日はこの辺で。