相変わらず、上記のテーマを考えている。『有意義な休日』とは何なのかと。
誰かに言わせれば、『己の成長に繋がったときサ!』と熱いことを言う。
別の誰かに言わせれば、『何もしないが幸せダ』と仙人みたいなことを言う。
色々と考えて、本を読んで、考えて。
無駄なそれを送ってしまったなぁと考えるたび、僕は飽きもせず自問自答を繰り返してきた。
そして、ちょっと前にあることを悟った。
それは、『定義は、十人十色で完全に違う』ということだ。
今さらである。『有意義』に共通解は無い。少し考えれば当たり前なのだが、気付くのに時間が掛かってしまった。
となれば、一人一人完全に違うそれを、『探し当てる』必要があるとも分かった。あくまで他人のは参考材料にしかならないのだ。
そして、『僕の有意義ポイントはここでは?』と仮説を立て、休日の度に検証することを繰り返した。
あれはハマり、これはハマらず。そこの理由も、寝る前などを使って考えて。
そして最近。
だんだんと、僕における『有意義な休日の定義』の正体が掴めてきた確信がある。しかも、1つではない。
そこを意識して押さえることで、僕は『有意義』という抽象的なものを、ある程度コントロール出来つつある。
今日は、参考材料にしかならないけれどという但し書き付きで、僕におけるその定義をお伝えしたいと思う。
知的好奇心が満たされたとき。
僕は何回かお伝えしているのだが、好奇心だけはいっちょ前である。
『あれはどういう仕組みなのだ?』とか、『この芸人さんのプロフィールって何なんだろう?』とか、気になると調べずにはいられない。
僕の携帯のブックマークには、日本語版と英語版のWikipediaが入っており、それをサーフィンしつつ食事を取る程である。
そして、その好奇心がメタクソに満たされた日は、得てして『有意義』と自分が感じることに気付いた。
遠方への旅行、新しく発見した飲食店、行ったことが無いところの発見、教養が得られる本の読書などがその例だ。
上記のことをひっくるめれば、『知らなかったことを知れた!経験できた!』ということであり、つまり『知的好奇心が満たされた!』となる。
だからこそ、何もせずにゴロゴロした日は、新しい知識のインプットが0なので、どうにも無為に感じられるとなる。
論理的にもスッキリだ。
つまり、休出があったり、天候不良等で外出が妨げられたりしたときは、僕はひたすら読書したりWikipediaをいじったりしている。
その上で、『俺はこういう理屈でこう思うんだけどなぁ』と、考えを作ってみる。
それを繰り返すことで、ベッドで横になりながらも、僕は休日を『有意義』にできるようになったのだ。
だからこそ、最近の僕の履歴と本棚はとてもカオスになっている。
宇宙の歴史と、宇宙観測の歴史。
フェルマーの最終定理と数学史。
古代生物の奇天烈な容姿と生態。
幕末~近現代の日本史。
仮想通貨と経済の今後。
グローバル資本主義を理解するための経済学。
大相撲の横綱一覧。
都市伝説の一覧。
書きだせばキリがない。でも、このカオスにある種の規則性が見つかったりもする。意図せぬところで知識が繋がるのだ。
それは口で言うことは、僕のお頭ではまだ不可能である。
しかし、そういう漠然とした、しかし確かな感覚が得られた日には、何があろうとも僕にとって『素晴らしい日』になる。
『こことここって、こういう理屈や論理が共通してね?』とか、『この部分の歴史の流れ、身覚えがあるぞ?』という感覚。
それはもはや快楽物質ドバドバになるほどの力を持つほどの感覚だ。正直、それが欲しくて雑多な知識を入れ続けているところはある。
さて。
話を戻すと、僕は『知的好奇心が満たされる』ことが、有意義な休日の主たる要因の1つである。
少しでも共感するところがあれば、是非頭に色んな知識を入れてみてほしい。
人と集まり、語り合い、笑いあったとき。
GW終わりごろ、高校の同級生5人と集まって飲んだ。
しかし、僕のテンションはそんなに高くなかった。色々なネガティブ要因が心に溜まっていたためだ。
親戚の入院、目に見えて老いてきた実家の犬、長すぎる連休、働かない期間への罪悪感、GW明けに待っている憂鬱な仕事・・・
ついでに言えば天気も雨。そういう状況で、『だるいなぁ・・』と考えながら、集合場所へ向かったのだが・・・
集まって会が始まってしまえば、そんな感情などどこかへ吹き飛んでしまった。
昔の思い出。現況。そしてこれからの展望、野望。聞いていてどれも面白い。
力になれればいいと思うから、僕が持っている知識も全力で伝える。結果、脳みそはフル回転だ。
そして僕にない観点や、忘れていた思い出が飛び出すと、頑張って記憶しようとこれまた脳みそがフル回転する。
友人の話はとにかく刺激になった。転職に留まらず、独立、結婚、大怪我など、ドラマチックなトークは聞いていて昂奮する。
気付けば、酒が回ったのもあり、すっかり気分が高揚した状態で帰路につくのであった。
集まりそのものが苦痛であればこれは使えないが、誰かとコミュニケーションを取ろうと集中すればするほど、要らぬ感情が入り込む隙間は無くなる。
そして、笑いだのなんだので素直に感情を出せると、不思議と『良い日だったなぁ』と実感する。
やはり、他者の力は大きい。周りが誰も企画するタイプでないのなら、自分が企画すればOK。
どうにも休日が盛り上がらないときは、みんなの力を借りてみよう。(無論、集まる際にそんな意識は不要だが)
何かを作ってシェアしたとき。
最後の要素は、『何かを作ってシェアしたとき』について、である。
それは、例えばこのブログの記事もそうだし、やたら凝って作ったカレーなんかもそうである。
自分の作品(広義で)を発信することは、『有意義な休日』においては結構大切なファクターだ。
昨今、人々の「承認欲求」なるものが強まっているという。
自分の意見や存在を発信し、それを誰かに気付いてほしい、認めてほしいというのがそれだ。
だからこそ、インスタグラムやFacebookが流行しているのだという。僕自身は、それに対して別に是でも否でもないのだが。
僕自身こうして斜に構えているものの、絶対僕は承認欲求が強いのだと自覚している。でなければ、100も記事を書いたりしない。
僕みたくそういう点に気付いているのなら、何かしらの形あるものを作り、発信してみるのは大いにありだ。
それは何も、プロ顔負けの料理だとか、専門家もうなる構図の写真である必要は無い。自己満足で十分だ。
小説に興味があるなら、書いてみればいい。お菓子を作ってみたいなら、作ってみればいい。
それを皆に見てもらうというのは、賛否両論あるが、満たされるものは大きい。
『そういう投稿はウザい』とかと思うヤツは確実にいるが、そんなのに構っていたら、一生自分に素直には生きられない。
好きに生きる第一歩、その訓練としても、きっとこれは活かせるのではと思う。
そして時間をかけて何かを作るとき、完成の瞬間は本当に気分が良い。
その日一日の全てを、良い色に塗り替える程の力がある。達成感の力は大きい。
プラモ。料理。写真。文章。お菓子。
何でもいい。最近休日が味気ないのなら、何かをクリエイトしてみよう。
終わりに。
『仕事をするために生きている』という言葉に虫唾が走る。
たまに普通に、『滅私奉公こそ美徳』『頑張ればいずれ給料が上がる』という嘘を、公私問わず堂々と言われて辟易する。
そして、そういう思考に染まっていきかけている自分も怖い。同じことを他人に言っていないかどうかは、かなり気を付けている。
そんな偏りを正す時間として、単純にリフレッシュの場として、『休日』の過ごし方はこのご時世特に大切だ。
「休日を返上して働くことが高尚」などという欺瞞を吹き飛ばし、より良い休みを謳歌してみよう。
その一助に、ここで書いたことがなれば、嬉しい限りである。
※以前の記事はコチラ。
hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com
※以下、自分が考える『知的好奇心を満たせる良書』です。